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御津町商工会

② 『河原田遺跡』

55.png昭和七年の春、上佐脇の人が居宅新築の地形盛りにするためこの付近の土を採ったとき、土器が出ました。また、同じ年の夏に県道国府前芝線の改修が行われ、沢山の土器と石器があらわれました。のち、1年くらいして県の小栗鉄次郎氏が視察にきたがそれなりで終り、顧みる人もありませんでした。
昭和四十年になって、上佐脇は大々的に土地改修工事をすることとなり、遺跡は闇から闇へ葬られる危機を迎えましたので有識者の間にこれを惜しむ声があがり、関係者の努力が実って愛知大学が南設方面へ実習にゆくことになっていた予定を変えて、1週間をかけ、学生40名が常光寺に合宿し歌川、大参二先生指導の下に学術的な発掘を行ってくれました。しかし、経費や日数の点で力及ばずさらに2日ほど延長したものの、ほんの一部の部分発掘に終り(大参先生曰く、最低1ヶ月はほしいと)住居址の発見はできませんでしたが、かめ棺壺棺がでたこと、また多量の土器を出したことなどから墳墓地を伴う住居址があったと考えられると2先生は語っています。時代は縄文晩期から弥生後期にわたり、なお、上部において朝鮮通宝と中国銭の各一枚が発見され鎌倉時代の陶器片などもでたことがありました。
むかし、音羽川は上佐脇の方へ迂回して流れ川幅も100メートル内外と広かったのが、今、安藤川という細い川になっていますが、この沿線にはあちこちにかなり濃密に遺跡が散在しています。
この出土品は愛知大学と町中央公民館に保管されてあります。

          広報みと❺文化財 昭和53年2月15日号より