むかし、上佐脇村、中佐脇村、下佐脇村という3つの村がありました。このうち、中佐脇という村は現在なくなっています。どうしてなくなったかといいますと、いろいろな原因があろうと思いますが古老の伝えるところでは、水害がひどかったために村民が四散してしまったとのことです。中佐脇の半分は下佐脇へ、残りの半分は上佐脇と為当に帰属したということです。
この村の規模、沿革などは明らかでありませんが村内に正眼庵と慈光寺という寺があり、また、村の氏神様は若宮八幡宮といい明治20年の地誌にも「これ、中佐脇村の氏子宮にして」と明記してあります。この神社は、村がなくなってもそのまま明治まで原位置(上佐脇と下佐脇の境の六反畑という小字の内)に残されていました。付近は若宮と俗称され慶長9年(1604)検地帳にも若宮の地名は載っています。この神社は、上佐脇の大林氏一門の氏神としてあがめられ、旧8月15日の祭日には参拝者に餅をくれたのでにぎわったとのことです。ご神体は黄金でできていましたが明治初年に盗難にかかっていることを発見し、ちょうどそのころ、明治政府から小さな社寺は廃却せよというお触れもあったことで、大林家の本家(今は大林房治氏)に引取って現在までお祭りを続けてきたわけです。正眼庵はいまの竹本鉄工の東北150米あたりが正眼庵という地名になっていますのでここにあったものと推定されます。また、慈光寺は山号を佐脇山といい野川下橋より西北350米の辺にあって昭和四十年の土地改良のときまで、そこに塚があり大きな桑の木が残っていました。これは新城市宇利地方に移転したと伝えられます。下佐脇の正眼寺は永正7年(1510)の創立でこれが移転のころといえましょう。宇利の慈広寺に問合せたところ500年位前からの記録を有するといい、廃村はそのころとみえます。上佐脇の西新屋に接した一町歩位のところを今も中佐脇と呼んでいます。
広報みと:❺文化財 昭和55年2月15日号より