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御津町商工会

③ 『佐脇城趾』

56.png佐脇城のあったところは、現在の㈱丸上の敷地にあたります。
この城は、南北朝のころから史上にあらわれ、佐脇氏がここを根拠としていたようです。その後、奥平氏がこの地方に勢力を得ますと、佐脇氏はその配下に属したとみえまして寛政重修諸家譜には「佐脇の主、生田主計等、貞久(奥平)に属す」とでています。このときの生田氏とは、佐脇氏のことを指すのであります。
やがて、奥平氏が他に移りますと永禄4年(1561)ごろ今川氏の部将がここを占拠しました。ところが間もなく岡崎の松平氏に奪われたのですが、その松平氏(のちのち家康)は地元近くで一向宗の反乱が起り、主力をそちらへ向けているうちに、また、今川氏に奪取されました。しかし、その後松平氏はまたまたこれを奪いかえしました。松平方の最後の城主であった佐脇刀祢太夫は、奥平氏に従って長篠の戦いに加わり討死しましたので、後を継ぐ者もなく廃城となりました。
城跡の南東400メートルの馬市場というところに、その墓と称するものがあります。これらの争奪戦において、佐脇城は、日本外史やいろいろの郷土史書では「佐脇八幡の両砦」と書かれてあり、この付近は松平氏、今川氏の第一線であって常に攻防がくりかえされていたのです。
余談ですけれども、明治のころまで豊川市白鳥町に山と呼んでいた乞食の一団が住んでいて、下佐脇などへも物をねだって歩いたとのことですが、佐脇城地域にある若干の民家には、決して入らなかったという言い伝えがあります。これには何か城にからむ事情があろうと思います。

          広報みと❺文化財 昭和53年3月15日号より