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御津町商工会

㉗ 『小栗屋敷跡』

91-1.png 赤根の村落の西部と紫川にはさまれたところ、大体、字屋敷の足立和一氏と塩之谷功氏の畑を中心とする地域に領主一色丹後守のご陣屋がありました。前は豊沢の森下に所在しましたが享保末年(1716)に赤根へ移転されたのです。この位置は古来小栗屋敷といわれたところで坪数は729坪あったといいます。
 むかし、応永30年(1423)に常陸の国(茨城県)に小栗孫五郎満重というものがいて足利持氏の軍に攻めたてられ8月に惨敗しました。敵は小栗が死んだものと思っておりましたが実はひそかにのがれて、三河の赤根に住んでいた遠縁の郷士小栗惣兵衛をたよってきてかくれまわれたのですが、やがてここで亡くなりました。小栗に小次郎助重という1子がありましたが再び関東にまいもどりまして相模国(神奈川県)に潜入し権現堂村に立寄ったところ、宿の亭主が横山大膳という盗賊の頭で小栗らのことを「いい鴨がやってきた大分財宝を持っているらしい、遊女に酒を勧めさせ毒を入れて小栗とその家来を殺し財宝を奪おうではないか」といって仲間と相談していました。そんな大事が当の小栗に知れるはずもないのですが、幸いなことに遊女の中に照姫というのがいて小栗に好91-2.png意を感じていたのでこのことを知らせました。2人はわざと酒を飲んだふりをしておりましたが、小栗は機をみて外に出ますと荒馬がつないでありましたので馬術にたけた小栗はこれに乗って、時宗の総本山藤沢道場まで走り特於上人に助けられ三州へと送られました。一方照姫と従者は酒のため意識を失ない川に捨てられ財宝はとられましたが照姫は川からはい上り助かりました。
 永享年中(1429~1440)小栗はまた関東にもどり大恩ある照姫を探し出し、盗賊をみなごろしにし財宝をとり返し照姫に与えました。小栗惣兵衛の子孫が吉田札木町へ移り赤根屋惣左衛門といったといいます。

          広報みと❺文化財 昭和56年2月15日号より