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御津町商工会

★『御馬城趾』 (1-⑥)

58.png御馬の八幡社の前を東へ、新幹線のガードを出たところに小さな記念碑があります。これが城跡で、もとは大きな記念碑で愛知県の建てたものでしたが、土地改良のとき誤って折損され姿を消したのは惜しいことでした。
さて、この城は統叢考(御馬の人―渡辺富秋著)という本によりますと応安2年(1369)に将軍の足利義満が重臣の細川頼之に命じ、頼之は細川頼有に下令して築城させたとのことです。応安というのは北朝の後光叢天皇の年号であって、南朝の正平24年に当ります。上佐脇の羽田野家一門の氏神天白社には、最古の棟札として明徳3年(1392)というのがあり、これはやはり北朝側の後小松天皇の年号であり、何となく、北朝の勢力が東三地方に浸透していたことがうかがわれます。
永享、享徳(1429~1454)のころに細川治部大輔政信が城主となっていましたが、このころは町内の茂松城(後日紹介)に細川兵部少輔勝久がおり、野口村には細川民部大輔教春がいまして、これに御馬城の細川政信と3人合せて当時これを三細川と呼ばれていたとのことです。
文明13年(1481)、今川義忠(義元の祖父)の攻撃をうけて当時の留守城主酒辺河内守時重は敗走し、残っていた者は女子供まで皆殺しにされたとの言い伝えがあります。
のちに、徳川家康の妹の夫松平康忠(長沢松平)が城主として臨み、康忠のあとはこの長沢松平氏の支流である松平浄感の一族が、居館に利用していましたがその主君松平越中守の転封に伴い桑名へ移住しましたので、その後は長沢松平家が兼務城主の形で管理してきたようですが、多分幕命によって廃城となったと思われるが、遂に宝永元年(1704)3月土手や堀を平げて耕地を造り、民有地となりました。統叢考という郷土史書ができたのは、それからわずか十九年後の享保8年(1723)ですから城が取りこぼされた年月は、まず、正確なものとみてよかろうと思います。

          広報みと❺文化財 昭和53年5月15日号より