明治20年に内務省が、全国の他誌を調査提出させたことがあります。その控えをみますとこの城について「久保田氏旗本の城あり」と記されており、また、慶長9年(1604)の検地帳には小字名として久保田屋敷と書いてあります。現況は安藤川に沿った低い湿田地域で、こんなところに城があったのかと疑われてもしかたがありませんが古図をみれば高めの島畑があったことが分ります。この辺を俗に久保田と呼んでいますが、久保というのは女性のくぼみを表わすということですからそういう地形をした田であることを示しています。それは沢山の物をどんどん産み出す宝庫であって、我が国では古来から餅つき臼なども女性の象徴として神聖視され、正月にはしめ飾りやお供え餅を供えてお祭りするわけですがこれらもくぼみというものを尊とんだためです。
さてこの城は、とりでというほどのものでしょうが、その経歴はどういう風であるのか、久保田氏という城主がどういう人あったのか、誰の旗本であったのか全く不明です。後裔にあたる久保田京一家に系図を伝えていますが開巻冒頭に久保田系図として次に慶長九年御検地所持田畠御竿請主(測量をうけたときの所有主)源左衛門法名白峰全清と書いてあり、農家として立った時点以後のもので肝心のそれより前の城主時代のことはつまびらかでありません。おそらく、久保田氏が刀を捨てて帰農したとき敵の追求をさけるために一切の書類を処分せざるを得ない事情があったかと思われます。なお、城の鎮守として鷹子天王社というのが祭られていましたが、これは城主の可愛がっていた鷹の巣があったので名付けられたといわれ、疫病を免がれるという御利益があり霊験あらたかと伝えられ、明治以来久保田京一家に遷され今なお久保田氏の氏神として同族の人たちによっておごそかに祭られております。城跡はつき崩されて苗場に利用されてきました。
広報みと:❺文化財 昭和55年1月15日号より