「引馬野に匂ふ榛原入り 乱れ衣にほはせ旅のしるしに」 長忌寸奥麿
万葉集の、この歌にでてくる引馬野とはどこであろうかということは、古来から学者の間でさかんに議論されました。加茂真渕をはじめ多くの学者は、静岡県浜松地方の野であるといっておりましたが三河説をとなえる人は少なく、我が今泉忠男氏は御馬付近の引馬野をさすものであると、40年も前から主唱せられ歌人斎藤茂吉もこれに同調し、万葉学者の久松博士も統叢考(前掲)などの文献によって三河説を立証し、他に有力な証拠があらわれない限り引馬野は、御津町に存在したものであると定めておきたいと述べられ、最近では、引馬野は三河の御津附近に存した野という定説になっております。
愛大の久祖神博士も、御津川と音羽川が造った三角州は当時あたかも低くい沼野を呈し、この「低き沼野」が「引馬野」に転化したものと考えられるといっておられます。
今から千二百年前、持統帝が伊勢の国から海路御津の港にお着きになり、ここに一時行在所を設けられ、やがて、国府をめざして歩を進められたとき、そこに展開する萩原をみてお供の人々が、歌を詠じ前記のような引馬野にの作が残されたのです。
お隣りの為当町に最近、小公園ができてそこに引馬野の碑が建ち、この歌の説明文が掲載されてあります。この碑というものは、宝飯地方史写真集によれば終戦直後、竹本長三郎氏が建てたものと書かれてあります。碑文のいわれ、建碑の動機、年月、建碑者名も何もなく、ただ引馬野の三字があるだけで碑の建てられた目的は明かでありません。要するに引馬野というものは、100坪や200坪の限られた狭い土地ではありませんので、おそらく、何十万坪という広い野原であったでしょうから、当然引馬野の範囲は為当あたりにも及んでいたことでしょう。
広報みと:❺文化財 昭和53年7月15日号より