広石の越川墓地に同村の庄屋であった竹本庄右衛門(竹本庄平氏先祖)平野源蔵(平野源型氏先祖)の2名をまつった墓があります。明治20年の広石村誌や御津神社内同氏霊廟の由来記等をみますと、むかし、金野地内に11ヵ村の入会山がありました。入会山というのは一定地域の住民が特定地域内の山から共同収益(薪炭、まぐさ、木材等の採集)をする習慣に供されている山のことですが、寛文年中にこの入会山について金割と灰野村対広石、森下、茂松、丹野、山神、赤根、西方、大草、泙野村の9ヵ村との間に争いが起りましたが、金割灰野村の考えは何とかして入会の権を解消させたいと意図しており、一方竹本・平野の二人は九ヵ村の代表として飽くまで入会権を確保しようと金野側の出先代官と対抗しやむを得ず寛文9年(1669)3月幕府代官の鈴木八右衛門へ直訴したところ、その罪は重く直ちに牛久保の牢屋にぶちこまれ、その後10月8日になって打首の刑に処せられました。これについては広石村の庄屋為蔵(渡辺三次氏先祖)が天保11年9月(1840)領主柴田出雲守の本宿御役所に提出した覚書が本宿町の富田病院に保存されており、次のとおりです。
一、私共村方入会奥山の儀寛文年中当村並に森下村茂松村丹野村山神村赤根村西方村大草村泙野村並に金割村灰野村しめて拾壱ヶ村往古より入会山に御座候処金割灰野我儘に進退仕候に付寛文9酉3月御代官鈴木八右衛門様へ御訴訟申上候処広石村源蔵庄右衛門と申す者両人牢舎おおせつけられその上同年10月8日右両人灰野村境にて死罪仰つけられ候由村々申伝候事に御座候(後略)このような次第でしたが処刑の場所は灰野、座生神社前の精米所のすぐ裏手に当たります。大きな石と老杉がありましたが、今は何もありません。2人の恩恵に浴した村々は大恩寺他3ヵ寺に祠堂金を入れてその冥福を祈り後に喜永年(1848-)になって村中から出資して墓を建てました。この事件について金野の方の伝承は少しく差異があります。即ち二人が官林中に入って盗伐しようとしているのを発見して幕府代官に知らせたので入牢させられたと言い伝えております。
広報みと:❺文化財 昭和56年5月15日号より