小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

★『御所宮行在所跡』 1-①

57.png大宝2年(702)持統上皇が、壬申の乱ののち夫君であった天武天皇の旧蹟をたずねられ、三河に御幸になりましたがそのときの行在所のあとであるといわれます。
後世の人が、この神聖な場所を不浄によってけがされることを恐れて、小祠を建て御所宮として崇敬しました。このお宮は現在下佐脇の氏神様境内にお祭りしてあります。
なお、この近くの音羽川右岸に老松があって、そこに石川信栄翁(彦七)の建てた行在所といいましてもその敷地は広いのでしょうが、御馬字宮浦すなわちこの老松の北方近くに五坪ほどの草生い塚がありまして、ここも行在所跡と言い伝えられておりましたが、石川翁は最初ここに建碑しようと考えていたようですけれども、。地主の荻野縫次郎氏と話がくいちがい、そこはあきらめて同じ旧蹟内に残る老松の下に碑を建てることに考えをかえたようです。
しかし、後年になり松にはそれが幸いして、昭和九年ごろ音羽川下流の拡幅改修工事が行われたとき丁度松は邪魔になって危うく伐り倒される運命を迎えましたが、地元の保存に対する熱意と且つは行在所跡という小碑があったとかげで、県土木も皇室の旧蹟には頭を下げて拡幅工事はここを避けてとおり、かえって堅固な石垣をもって保護を加え今日に至りました。しかし、時代の変った今は、その保存には色々とむつかしい問題がからむと思いますが緑の乏しくなった今日、これはつとめて保存してゆきたいものです。
いずれにしても、この二つの、塚や宮跡、老松を結ぶ範囲を行在所の中心地とみてよいでしょう。この付近の旧字名に宮浦、宮前、皇子谷津、御膳田、あるいは御所、都などという名が集中散在しているのも、故なしとせず、一応の因縁はあろうと思われます。

          広報みと❺文化財 昭和53年4月15日号より