寛永12年(1635)に、ときの代官鳥山牛之助、鈴木八右衛門によって、大浜、鷲塚、平坂、犬飼(蒲郡)及び御馬をもって三州五ヶ湊(みなと)というものが定められました。
元禄5年(1692)の泙野の古文書をみますと「御年貢米、春三月のうちに御蔵出し、俵こしらえ仕り、御馬湊へ道のり15町ほど百姓役(費用百姓側持ち)に付出し候」と出ており、この付近はいうに及ばず遠く新城、稲武方面からも年貢米が運ばれてきました。新城の場合は御馬までの道のりは、豊川を舟で下りますと40キロ、陸路なれば20キロで一俵の運賃はそれぞれ36文・80文でした。これは百姓持ちです。
港につきますと、役人の検査や指示を受けまして船へ積みこむわけです。御馬湊から今の引馬神社へ向い国道23号線へ出るまでの道路、140メートルほどの間が上納米の検査をしたところで、記録によりますと安政元年(1854)11月4日の大地震のときは、ちょうど、御回米の検査をしていて津波のために500俵ばかり海へ流してしまったということです。関係者の困惑した表情が、目にみえるようです。この道路の西北側にある波多野健次、渡辺健次両氏の家附近には廻船問屋が設けられ、船主組合と幕府との連絡、命令下達や人夫の割出し等にたずさわっていました。集まった上納米は、船主組合が江戸浅草への廻送にあたりました。船は500石船と1000石船を8艘もっていたといわれます。古老石黒寿一氏の話によりますと、一艘には1000俵から2500俵を積んだとのことです。
御馬区有の寛政3年(1791)の文書によりますと、季節によって親船の碇泊場所がちがい、旧3月末から夏期にかけては港から直角に1000メートルほど沖に位置しました。海が遠浅のためです。冬期は季節風をさけて、大塚西端の海岸に碇泊しましたので、はしけは約4キロを往復したわけです。
広報みと:❺文化財 昭和53年6月15日号より