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御津町商工会

⑦ 『万葉遺跡山下橋』

「旅にして物恋しきに山下のあけのそぼ舟沖へこぐ見ゆ。」

62.pngこの歌は大宝2年(702)持統帝が三河の国に行幸されたとき、お供をしてきた高市連黒人が作ったものです。
その大意は、「京をあとにしてはるばると遠い国へやってきたが、そろそろ故郷が恋しくなった。そんな気持ちでいるところへ、ふと山の上から海をながめてみると山の下のなぎさから、あかい朱塗りの舟が沖へ向って漕いでゆくのが目に入った。この舟はまさしく都の方へ向っていると思ったとき急に郷愁がわきあがってくるのを押えきれなかった。」ということであろうと思います。
この「山下の」という山下の2字が議論の的でありまして、単に山の下という普通名詞であろうという説、あるいは固有名詞であるとする説、また、大恩寺山をさすのであろうという説等々があります。持統帝が東三河に行宮を設けられていた期間中、行宮の近辺において、沖へ進む舟を山下に望むことができるという状況にぴったりのところは、上記の諸説中にある大恩寺山をおいてほかには見当らないのではないでしょうか。宝飯地方史資料第十四巻三河文献集成においてもこの点にふれており、昔は広石の御津神社まで船がついたとの伝承も あり、当時大恩寺山の南麓あたりは、恐らく海が間近かに迫っていたことでしょう。愛大の津之地先生も大恩寺山説を採っておられます。また、同先生によりますと、山麓の青葉がくれに紺碧の海へ丹塗りの舟が進むという色彩のコントラストが誠に美しいと指摘せられています。しかもこの歌を詠じた人の名が黒人というのは、何とも面白いことではありませんか。
山下橋はこの歌と直接の関係はありません。しかし由緒の地近くに架かり、橋名を山下と命名したのはこの歌を意識してのことと思いますが、その命名は古くいつのことか定かでありません。

          広報みと❺文化財 昭和53年9月15日号より