徳川家康の若いころは松平氏を称していましたが、この松平は十八松平といわれ血縁で結ばれた18の支流があったのです。それぞれ地盤としていた土地の名を冠して、形原松平、深溝松平などといいました。長沢松平というのもその1つで長沢におりました松平源七郎親則を初代とし、9代康直に至って子がなく康直の父康忠は娘婿の松平忠直の子である3才の直信を養子としましたが病弱で公務に就く力がなく御馬村に閉居の身となり、既に文禄2年(1593)康直の死とともに事実上家は絶えようとしました。そこで名家の跡を絶つに忍びず家康は、康忠へ妹を嫁がせている関係もあり6男の忠輝を長沢松平家へ入れたのですが、いろいろのことがあって忠輝は追放され信州諏訪の配所において天和3年(1683)92才で不遇のうちに没し正統は絶えたわけですが、一方、直信はどうかといいますと養父康忠が元和4年(1618)京都で亡くなったあと、その名跡を嗣いだものの病身のため御馬村に閉居して仏門に帰依し、傍ら子弟を教育して貞享5年(1688)88才で海元寺に没しました。平松可然もその門人でした。直信は三休と号し、市郎右衛門と称しておりました。御馬城趾に三休塚の碑があります。
直信なきあと、その子の昌興は仕官の志捨てがたく御目付鈴木伊兵衛に出願中、まだ裁許の下らぬうちに昌興の子親考は享保6年(1721)秘蔵する家康の墨付に自分の訴状をそえて江戸城大手橋に置いたのが幕府重役の手に帰し、神君の墨付を路上においた罪を問われましたが、由緒ある長沢松平家の子孫ということが確められ享保7年1月、特に昌興に対し碧海郡中根村十町歩の芝地を賜わりまた支度金として白銀百枚を交付されたが、のちになってなることなら、長沢村の故地を賜わりたいと願い出て許され先祖発祥の地に復し200石を得ました。この子孫が長沢の元屋敷に住居せられる松平信義氏で昭和25年御津中学で教鞭をとられたことがあります。
広報みと:❺文化財 昭和55年7月15日号より