小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

★『念仏橋』 (4-②)

77.pngこれは現在の野川下橋のことですが、むかし青年たちがお念仏を唱えてまわりその努力の結果得た喜捨金を元手として橋が架けられたと言い伝えられております。何と美しい話ではありませんか。それがどうして野川下橋などという名に変えられたのかといいますと、昭和8年ごろ世の中は大変な不景気に見舞われ働くに職がなく農作物は暴落し、農家は食うに困ったという時でしたので、この年、これを救うため国会が承認して農村振興土木事業と銘打ち、県の直営工事として白川改修工事が行われたのです。音羽川のつけ根より上は西古瀬川との合流点まで2470メートルの間を20万円の工費で、同年7月30日起工式をなし12月にはほぼ完成しました。今まではわずか4メートルの川幅でしたのを35メートル幅に拡張したのです。上佐脇地内でとられた田畑山林は計22反9畝24歩(22790平方米)でこの買収費は県の負担が5100余円で、外に上佐脇の買収負担金は2200余円でした。このとき、念仏橋を架けかえるに当たり県の現場係官は区長久保田正雄氏を呼び出して橋名をたずね、念仏橋であるとの答えに接すると目を丸くして「念仏橋だと!何といういやな名だ、野川下橋としようではないか」といって勝手に今の名に変えてしまったということです。貧困にあえぐ農民を人夫に使ってもらっていることを思えば、区長さんも、飛ぶ鳥を落す勢いの県のお役人にさからうわけには行かなかったことでしょう。当時の現場県係官は池田三七氏、松原修一氏、山本栄寿氏であったと記録に残されています。
 それはさておき、私どもはたとえ橋名はどうなろうともこのむかしの青年たちの美挙は永く次代へ伝えられていきたいものだと思います。

          広報みと❺文化財 昭和54年12月15日号より

  念仏橋
普請浄財功徳饒。
青年篤行永無消。
爾来二百星霜査。
衆庶猶称念仏橋。
  普請の浄財功徳饒なり。
  青年の篤行永く消ゆるなし。
  爾来二百星霜査たり。
  衆庶なお称す念仏橋。
  読念仏橋之誌 鳥山吉次
弥陀本願有光明。
千載佳称不可更。
糞塗仏頭真個是。
庸館抹殺古橋名。
弥陀の本願有光明あり。
千載の佳称あらたむべからず。
糞を仏頭に塗るは真個是れなり。
庸館抹殺す古橋名。
鳥山氏は紫音と号し明治三十四年今の豊川市久保町に生れ、高等小学校を出ただけで農業に従事の傍ら独学で漢詩を学び、昭和四十四年に没せられるまでに作詩一万首に及ぶといわれています。