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御津町商工会

★『竹本城趾』 (1-⑦)

これは新宮古城ともいわれます。竹本油脂の先祖発祥の地ということで、豊橋の名士大口喜六翁の書いた大きな城跡碑が建っています。
この城の沿革はあまりはっきりしませんが、郡賀山乙巳文氏が竹本家のために書いた著書によれば、新田義貞の臣に十六騎党という勇士の一団があり、その中に高田薩摩守という者がいて、太平記によりますと「精兵の射手十六騎あり、一様に笠符をつけて進むにも同じく進み、退くにも同じく退きける。人これを十六騎党と称し彼等が矢面には楯も甲冑もたまらざりけり」とでています。この高田氏の二男、又次郎政季といいますのが竹本家の遠祖でありまして、広石村竹本郷に移住して、この城におりました。地名にちなんで姓を竹本氏と改めました。八代ほどのちの竹本四郎左衛門成久は、今川家に仕えておりましたが、主君の義元が桶狭間で敗死したあとは、竹本城を捨てて為当に移り帰農いたしました。
もう一つの話は、明治26年編纂の宝飯郡誌によりますと、この付近は長沢松平氏の領地でありまして、ここにはその臣の山田長門守晴政が居城し、当時、長沢松平家には徳川家康の第六子忠輝(1592-1683)が養子になってきておりましたが、元和元年(1615)忠輝は徳川秀忠の従士を斬ったりして、やがて起った大坂夏の陣にわざと従軍しなかったりしましたので、流罪に処せられそのまま天和3年(1683)に亡くなりました。晴政はその子因幡守とともに殉死したといい伝えられております。なお、忠輝の妻は伊達政宗の娘でした。
明治維新ごろには、城域1500坪ほどあって、堀もめぐらされていたとのことですが只今は、わずかに5分の1くらいに収縮されています。城のお姫様にまつわる姫杉という巨樹がありましたが、惜しくも昭和42年に枯死し、2代目が植えてあります。

          広報みと❺文化財 昭和53年11月15日号より