天王山古墳
赤根の北端の天王というところに丘陵があって、その頂きに前方後円墳があります。後円部と思われるところは既に開墾されてみかん畑となり、そのとき石室につかわれていた巨石が動かされて十数個露出散乱しています。古墳の長さも20メートルくらいはありましょうか。開墾された畑からははにわ片が採集されていて、この地方では数少ない前方後円墳として貴重なものと思います。
森下入道の墓
森下入道とは波多野家次のことで、波多野家はむかで退治で有名な田原藤太秀郷の子孫で、今の神奈川県秦野市にいたので波多野を氏としたのですが、その後義重は越前の永平寺を創建するのに第1に力がありました。南北朝のころ三州宝飯郡森下に移ってきて豪族として栄え、この家は前9年の役に経範というのが討死したのを始めとし代々のうち南北朝ころから戦国時代にかけ各地の戦いに参加し12名もの戦死者がでえております。恐らくこのように当時の武家の一族というものは弓矢取る身の常として多くの戦死者を出すことは当然であったと思います。
家次は道観と号し出羽守であり、かつて牛窪地方を領した一色氏を討ったことで知られる波多野全慶の孫にあたります。時の足利義晴将軍から御紋を拝領するほどの武功がありましたが、天文5年(1536)の正月23日に織田信秀と戦い近くの弥勤寺峠で66歳で討死しました。最勝院殿道慧了山大居士とおくり名しています。もと、法住寺の裏山に墓がありましたが今はいつのころか法住寺の山門前に改葬されてあります。家次は長男の忠基とともに義晴将軍の命により義澄将軍の菩提を弔うため赤根に法往院を建てました。今の法住寺です。義澄将軍の戒名法住院殿に因むものです。家次はまた大永2年(1522)と明応7年(1498)に御津神社を再建の願主になっています。
広報みと:❺文化財 昭和56年1月15日号より