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御津町商工会

⑨ 『茂松城趾』

字名をとって高坂城ともいいます。
三河双紙という書には、この城は、源範頼が三河守であったとき居城したと書かれてあります。かなり古い山城でありまして、去る昭和37年6月5日当時名大教授の松井武敏、澄田正一両氏が実地検査にこられたとき、澄田氏は山頂の城趾付近で内耳のついた陶器片外1点を拾われ、鎌倉時代のものであるといわれましたが、発見状況が表面採集であったため、城に関係ある器物と確定するわけにはゆかないとのことでした。しかしなお、城の古さを知る有力な証拠とみてもよいと思います。
この城は、成田製作所の北方200メートルに突出してそびえる、標高74.8メートルの山を利用して築かれ、頂上に人工を加えて平坦地をつくり、三方を土塁で囲んでおります。少し東南に降りたところに古井戸があります。この井戸は、この山から1600メートル南にある御津山のカンカン井戸までトンネルになっているという伝説があります。御津山の方はカンカン井戸といいますが、明治ころまでは深くて、石を投げるとカンカーンと音がしたので仇名となります。
この城は後に、3細川と呼ばれた細川兵部少輔勝久がおりましたが、文明、長享(1469~1488)のころ今川義忠に攻め滅ぼされました。その時ちょうど、もっちいの日(正月15日)でしたから村の人は落城を悔み、祝いの行事を廃して今日に至っています。その後に、牧主計が在城しましたが、桶狭間の戦いで討死したとのことで、これは牧野伝内左衛門成時の六男といいます。
城は広石地内にありますが、茂松城といいますのは、400年むかし、城に二本松があって1本切ったところ血が出たので他を斬り残したことから一本木といい、松が2本重なる状態を重松、また、茂っているさまから茂松と言いだしたという話が伝えられています。

          広報みと❺文化財 昭和53年12月15日号より