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御津町商工会

① 『広石の銅鐸』

54.pngこの銅鐸は、明治11年9月(1878)広石の新宮山のうらの道路切通しで、定例の道普請をしていた村の人が掘り出したもので、三河では唯一の流水文銅鐸です。
墨色を呈し、青さびはほとんどありません。鈕部(頭部の吊り手にあたるところ)は発掘後に鎔接したものです。
発掘したときは、村の人もおどろいて早速御津神社祠官の渡辺鑵造のところへ知らせに走りました。鑵造もこれが何であるか分からないので、豊橋にいた国学者の羽田野敬雄に来てもらって始めて銅鐸というものであることを知りました。
広石から、このような珍らしい宝物がでたというので、村民は大悦びとなり鑵造の振舞いで、お酒も出されお日待をして祝賀いたしました。
さてこれを、どうしようかということを相談した結果、鑵造が金百円で買い上げることになりました。当時の百円は極めて大金で、そのころ米1俵の値は1円70銭位であったといいますから、米が約60俵買えた金ということになります。
銅鐸を手に入れて以来、渡辺家は家憲としてこれを保全する最良の方法として、門外不出という規則を定め、そのことを堅く守り今日まで秘蔵してきました。かつて我が国の銅鐸研究の最高権威者であった京大の梅原博士が見学のためわざわざ渡辺家を訪問されたが、門前払いをくわされ目的を達することなく引返されたという話は有名であります。

          広報みと❺文化財 昭和53年1月15日号より