御馬の入覚寺に参詣すると本堂の外側向かって左の奥に富秋の墓があります。台石が亀になっていますからすぐ分かります。
渡辺富秋は通称を久右衛門といい、号は老竜斎また頽翁、魯聵(おろかなこと)などいろいろありました。御城米回漕の船問屋(彼の子孫に至って弘化年中(1844)に休業した)を経営していましたが、かたわら、平松可然という人に師事して郷土史の研究に従い、御馬附近のことを書いた「統叢考」という史書を始めとし「三河古今城塁地理誌」「三河藻塩草」「新編参河国名所和歌」等の貴重な著作をのこしました。彼が享保14年(1729)に書いた「御馬村図系」は御馬村在住の各戸各氏について、そのころに調べられる範囲を元として略系図を集録しております。
また、非常に多才であって和算に精通し多くの門下を養ない、彼の三十三回忌にあたって門人たちが追福のため、数学の問題をおあつめその解き方を書いたものを霊前に供えたものが大をなし、のちにこれらをまとめて「算術問答集」1巻が完成しました。この本は先年亡くなられた近藤恒次博士が愛蔵しておられました。明治元年(1764)7月7日81才で没しました。おくり名して道寿居士といいます。
辞世の詩と和歌があります。
詩は七言絶句で、分り易く読み下し文としておきます。
81年樹林に遊ぶ。
花に酔い月に眠って光陰を送る。
無為の境界、人の識る無し。
己れに帰す本来一仏心。
和歌の方は
八十路あまり月よ花よと眺めてきて、この世のほかの思い出もなし。
ちなみに、子孫の方は豊橋市吉田町16に在住の渡辺友治氏であります。なお、この統叢考は久松博士が万葉集中の引馬野の歌等を御津町にて詠じたものと定められた有力な根拠資料の一つになったものであります。
広報みと:❺文化財 昭和55年6月15日号より