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御津町商工会

⑨ 東林山『本見寺』

125.png当寺は字花ノ木8の2に所在し臨済宗妙心寺派長松寺の末寺で、東林山と号し字のごとく昔は樹木の多かった寺のようでした。ご本尊は阿弥陀如来で明治10年、同12年の報告書によれば観世音としてありますが、拝観したところ阿弥陀様です。明治初年には観音様であったこともあったでしょうか。明徳3年3月(1392)の創建で、この年号は北朝の後小松天皇のもので、この地方には北朝年号の棟札などが多く北朝の勢力が強かったことを思わせます。開山は天叟春公首座です。この方は永享7年(1435)示寂されています。
 寺は西南に白川の流れを負いこの水を引き入れて鎮守堂として京都の仏師定朝作と伝える弁財天を祭っております。さて本堂の阿弥陀様はまたの名を子孕如来といわれます。もと、法華寺といっていましたが戦国の世に徳川家康が三方原の戦でしょうか敗軍のため身を隠すべくこの寺にきて住持にいかなる名の寺かと尋ねたところ、法華寺と気化され法華嫌いの家康は早々に退散したとのことですが、近くにある鎮守堂野前を過ぎ弁財天に参詣して武運長久を祈願し、待ち合わせの杯1つを献納して去ったといわれています。この杯はいつのころか、住職の交代の折り紛失して今はないそうです。その後この話が係わりあるかどうか本見堂と改名されました。しかし、世の変るにつれ栄枯の波にさらされ寺は荒れ放題となり弁天様も寺の世話人たる新屋の辻市郎左衛門の屋敷に移され、約30年お祭りしてきたところ、霊験あらたかな神徳を慕って参拝する人も多く俗家に安置するは勿体ないというので、寛保3年(1743)再び本見寺へ遷座されたということです。お祭りは1月と7月の15日につとまりました。本堂内陣の西隅には弘法様と騎馬の毘沙門様がお祭りしてあります。庫裡は文政8年4月(1825)建立となっていますが鴨居などに手斧削りの跡があります。本堂も同じころのものでしょうか。長らく荒れておりましたのを檀家の人や現住館昭恵庵主の努力によって清潔な寺観を呈するに至りましたが、近年腐朽が進みこの12月に鈴木建設により解体新築される予定のようです。明治12年の記録では寺領として8反余の田畑山林を有したが600坪余の宅地を除き他は農地解放により買収されました。この附近の小字名は本見地といわれており古刹であったことは察せられます。
ハイキングコースといえます。当時はその33番札所で「明かに照らす仏の常光寺頼みて出でよ暗き闇路を」という歌になっています。境内には目通り137センチの梛の古木4本があります。(本堂左方樹木)明治十二年の調査によれば境内1087坪(内やぶ3畝余)の外寺領として田5反8畝余畑四反四畝余ありましたが戦後農地解放によりほとんどを失ないました。むかしは寺子屋もあって明治30年70名の筆子たちが師匠宗道和尚のために建てた墓があります。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和58年12月15日号より