所在地は金野字観音寺25で、大恩寺に属する浄土宗の寺院です。創立は享禄3年3月(1530)でありますが、大正11年の報告書によれば明応8年(1499)ともでており、宝飯郡誌ではやはり享禄三年とあります。ご本尊は1尺3寸5分の阿弥陀如来です。伝説によりますと当寺の西北方300米の山中に白山神社があり、この付近に持統天皇のお志によって建てられた、草壁皇子を祀る宮路寺というのがあって、その後、幾多の兵火により焼失しましたが、新田氏が再興して観音寺と改めました。寺域には6坊が配置せられそこには百観音が安置せられていたといいますが、天文12年(1543)小豆坂の戦いの余波をうけて焼失し、観音様は牛久保の全谷庵に移されているということです。このとき焼け残ったのが久公坊という一坊だけでした。これはご開山の坊ということでしょう。のちにこれを現在地に移して正覚寺と改称したということです。白山神社の境内に古風な五輪塔若干があり、恐らく草壁皇子の供養のものではないでしょうか。この神社の西北の山中に大門坂という地名が残っておりますが、寺の大門があった所と推察されこの地から当寺へかけての一帯は観音寺の広大な境内であったものと思われます。(広報昭和58年1月郷の白山神社の項をみてください)
現在の本堂は昭和50年3月、主として現住職加藤智慧尼の経営建築にかかるもので加藤尼は引続き庫裡座敷の建築をも完成し、寺門の面目を一新しました。さらに加えて檀信徒の信心は篤く協力的で、寺は何となく活気を見せているように思います。加藤尼はかって、遠距離のため通園の足に不便をかこっていた保育園児を長い間牛車を運転して10年1日のごとき熱誠をもって送迎し、区民に感謝されたものもこの間のことで、常々菩薩行に精進される姿はまことに光明皇后のそれに似るの感あり、寺運の興隆を紹来しているのは故なしとしないのではないでしょうか。門前の観音寺川は深く山麓を侵食し、低いところに清流をたたえ、後に山を負い草壁皇子の昔をしのぶによい風趣を呈しています。いま、上流において土石流防止の堰堤新設工事中ですが、完成のあかつきはどうなるでしょうか。旧本堂は16坪余で元禄11年(1698)の建立にかかり大工は森下村の源左衛門と記されています。寺には田畑6反1畝ほどありましたが農地解放で失われました。山林は2町3反ほどを有しています。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和61年2月15日号より