小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

㉔ 御津山浄土真院『大恩寺』

140.png当寺は広石字御津山5の1に所在し、浄土宗鎮西派の名刺であって御津山浄土真院大恩寺と称しました。浄土真院というのは松平清康の内室の法号です。
むかし、推古天皇の33年(625)に高麗王の命によって僧恵潅が我国に来り三輪宗を弘めてまわり、三河においては新宮山上に1寺を建立して浄光院と名付けました。しかしながらその後七百余年の間荒れるに任せて経過しました。文安元年(1444)に今の千葉県飯沼の弘経寺第2世了暁慶善上人が弟子にその寺を譲り自身は浄土宗の宗派を全国に弘めるため西上されたが、この浄光院の荒廃した有様をみてその再興こそわが任であると老躯を捧げまず寺を浄土宗に改め、新宮山大運寺としましたが文明15年(1483)に入寂されました。了暁上人が関東から持ってこられた阿弥陀如来は日本三体仏の一つで、他の二つは京都五条の本覚寺(源実朝の室本覚尼公の持仏)と千葉の来迎寺とにあります。各工安阿弥快慶の作であります。
文明年間(1469-)2世肇誉上人のとき御津神社の御託宣を夢にみて神様がいわれるには大運寺の鐘が聞きたいから、わしの傍に来いとのことで朝廷に奉聞して勅許の上現在地に移りました。このとき徳川家の祖三河八代の第4代目松平親忠が大檀那となって中興に力を尽しました。明応2年(1493)後土御門天皇から開山了暁上人へ仏法に貢献した御褒美として紫衣の綸旨を賜りました。さらにまた、同8年同天皇の勅願所に指定されました。松平家代々の帰依あつく多額な供養料が納められました。親忠5男超誉上人は2世肇誉上人の弟子となりここで剃髪し仏門に入りました。後に智恩院の住職と出世され、また、三河7代の松平清康の三男成誉上人は七世空誉上人の弟子となりやはりここで剃髪されました。
後に当寺の住職となり天正元年(1573)岡崎大樹寺へ転住となりました。広忠は天文年(1532-)総伽藍を修理し、かつ超誉成誉両人の剃髪の寺であり大恩寺と改称したのです。家康は叔父の成誉上人に会うため時々参詣したことが寛延3年(1750)の記録に出ており、総門前の下馬橋で馬を降りたとの伝承があります。家康は本尊の宮殿を造りさらに広石の中で百石の寄進をし、御津山全山を寺へ贈りました。
王宮曼茶羅図と念仏堂は国の重文、山門と蓮の図、十五菩薩来迎図、阿弥陀如来坐像は剣の文化財に指定され、その他、家康の書状、三方原役後当寺に布陣した武田方の大将山県三郎兵衛の出した高札、今川父子の安堵状、熊谷直実の彫った法然上人像あるいは家康が生前に造って亀姫に与えた自像等々多くの寺宝があります。当寺は牧野家の菩提所であり、戸田奥平菅沼岩瀬延命氏等の墳墓もあります。現住は中島教導師で、寺には後土御門天皇より下賜の弘法像があり東三河三弘法の一つとして著名です。

       広報みと❼文化財 (寺)  昭和60年3月15日号より