当寺は広石字神子田28に所在し山号は広石山といいます。宝飯郡誌によれば本尊は聖徳太子作という阿弥陀如来です。真宗大谷派に属し開基は教亮でこの人は宝飯郡形原の松平源之助信清といい、応安6年(1373)41才のとき出家し字広国に今もある観音堂のところに1寺を創立して浄見寺と号し、寺を守っておりましたが、応永六年(1399)67才でなくなりました。この松平氏は多分形原松平の祖先であろうと思いますが、寛政重修諸家譜にはでていません。形原松平氏は大名として各地を転々とし明治維新までは丹波亀山(亀岡市)の城主でした。松平家の家臣である一族の松平敏が正徳年(1711-)ごろ編纂した「形原記」をみればその名も出てくるでしょうが。その文書は遠い亀岡市にあるので容易にみることは出来ません。寺記には形原にて5000石を領したとありますが当時は石高を用いておらず誤伝と思います。永禄年間(1558-)一向一揆によって真宗寺院が壊滅的打撃をうけたころ、碧海郡青野の慈光寺40世教明院教寿の妻の芳華院は家康のいとこに当っており歎願して前々通りに同寺へ朱印状をもらうこととなったが、そのとき、浄宝寺第6世正春は家康の味方であったという。そんなわけで当寺には東照宮始め代々将軍の位牌が安置されており、また、非常の節は御紋付提灯を使用することが許されていたということが明治3年4月(1870)松平了海より赤坂御役所に出した文書に書かれています。別に正春へ家康の守護仏弥陀の尊像が与えられ、その縁により慶長6年2月(1601)伊奈備前守より寺領五石の黒印状が交付されました。
貞享元年3月(1684)浄宝寺と改称し、また寛政4年(1792)現在地へ移転し今の本堂が建立されました。当時檀徒はわずかに14軒であったといいます。第18世松平融氏は20世をかねたが、かつて昭和6年より12年まで東本願寺ハワイ別院輪番兼ハワイ開教監督として同地に赴任活躍されました。このとき我が海軍練習艦隊が昭和11年6月より11月まで米国へ遠洋航海したホノルルへ寄港したがその中に上佐脇出身の大林末雄海軍中佐がいて、まさかハワイにおいて御津町の軍人に会えようとは夢にも思わず驚いたということです。中佐は後に少将に進みマリアナ沖海鮮では第3航空戦隊司令官として活躍したがこのようなエピソードもありました。19世正夫氏は比島にて戦士せらる。遺詠の一つ「消えかけ氏焚火かきたて写し絵の吾子が瞳を飽かず眺むる」
寺領として1町1反ほどの田地がありましたが戦後の農地解放により失ないました。寺の西の道は二見道の一部であると推定されています。現住は21世松平照刹氏です。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和60年8月15日号より