〔前編〕
十王というのは、人がこの世に別れを告げ冥途に旅立ったとき己れが生前に犯した罪の裁きをうける十人の裁判官のことですが、1番から順に秦広王(不動)、初江王(釈迦)、宋帝王(文殊)、五官王(普賢)、閻魔王(地蔵)、変成王(弥勒)、太山王(薬師)、平等王(観音)、都市王(勢至)、五道転輪王(阿弥陀)、となっています。77、449日目には太山王の所に達し次で100ヵ日、1周忌、3回忌を以て来世の身分が定められるとされています。生前の供養や死後遺族の追善によって罪は軽減されます。冥途の旅は最初死出の山に入りますが高くて険しく登りにくいのに鬼がきて駆り立てるので鋭どい岩角で足を傷つけ寒風に羽田倭雄さかれて苦められ初7日に秦広王の所に達すると生前に善行をしなかったことを叱りつけられたここで罪の定まらぬ者は初江王の所へ送られるが前面には三途の川が横たわっており罪の重い者は毒蛇のいる所を渡り中位の人は浅瀬を渡り、軽い者は橋を渡ることができます。岸辺には奪衣婆がいて衣を奪い取り柳の木にかけると罪の軽度によって垂れぐあいが異なり渡り口が定まります。宋帝王の所にくるまでの関所ではもう衣も銭もないから衣の代りに通行料として手足をもがれるのでくらげのように風に吹かれて行くと業の川に至る。苦しんで渡ること7日7夜の47日目に五官王の所にくれば罪を計る秤があり高さ50丈の石の分銅で計られるが人間の罪の方が重い。35日目に閻魔大王の所につく。ここには生前の罪が次々とテレビのように映る浄頗梨の鏡がありさらに補助として8個の鏡も備えられています。次は河原があって多くの丸い大石がはげしくぶつかり合っている間をくぐり抜けると三差路に出る、自分の罪によって自然と道が選ばれるが、49日目に闇鉄所を通る。常に闇夜で細い道の両側は剣のような鉄の岩角の多い壁があって苦しめられた上、太山王の前に着く。ここには6ッの鳥居がありどれかを通過することで罪は定まる。ここでも罪の定まらぬ者は百日目に鉄氷山という寒さきびしい所を経て1年目に都市王に至る。籍があって罪の重い者が蓋をとると猛火が噴出して身を焼く。やっと3年目に五道転輪王の前に出るっこで最後の判決が下り善にせよ悪にせよその生処が定められます。この際、娑婆からの追善供養があれば罪状軽減されて善処に送られるといわれています。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和58年7月15日号より
〔後編〕
前号において十王とはいかなるものであるかその大要をお話したわけですが、我が御津町にお住まいの皆様は神仏に対する崇敬の念が厚く1人として悪処に堕されるようなことはありませんのでご安心なさるよう申し添えます。
さて上佐脇の十王堂は字犬田18に所在し独立した仏堂をもっています。ほとんどの所が寺院本堂の一隅に安置されておるのが通例ですから非常に貴重なものと思います。この堂は木造切妻造瓦葺平屋建で9坪の小さいもので安永4年(1775)に建築されていましたが、腐朽が進み昭和53年5月区長山口清雄氏のとき取りこわし、6月12日上棟式、8月8日落慶式(建坪13坪)を行いました。工事費230万円諸費30万円でしたがその2分1宛を区と地元島27戸とで負担しました。安永四年の場合は願主は庄屋岩瀬清助外村役人で金10両余で建てたと記録があります。のち大正8年4月山口竜蔵、竹尾桂蔵二氏区長のとき建築費224円余で改築しましたが、このときは区が3分2地元島28戸が3分1を負担したと棟札にでています。当時の米1俵16円五十銭2添書してありますが米騒動前後で高かったことを示しています。因みに53年では政府売渡米1俵17、500円でした。
十王堂は岩瀬五郎八という人が建立の願主となり喜捨金を集めたのですが、実現を見ないうちに貞享3年9月9日(1686)死亡し西光善入大徳とおくり名されましたが、後2年たって貞享5年に十王堂が出来ました。その後、明治6年に維持資力のない社寺は廃却を命ぜられたので、やむなく、十王堂近隣に住む桑野善五左衛門、竹本善右衛門、岩瀬庄次郎、同権右衛門の四人が買取った上で明治九年これを村有に移管したということです。堂の入り口の日本の向拝柱の礎石に銘があって東方の石には「本家夫婦の骨を納め」西方の石は「末家夫婦の骨と本来2家の童幼の遺骸を納めてあるから石の蓋をかくしてはならぬ」と記されています。
どういう意味か、五郎八に対する供養ということでしょうか。なお、初盆の人は盆の16日に七とこ十王参りといって七ヶ所の十王を巡拝します。あげたお賽銭は冥途の小遣いになるといわれます。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和58年8月15日号より