当寺は西方字宮長55にあって、曹洞宗総持寺系の太源派に属し法住寺の末寺です。山号を医王山といい、本尊様は薬師如来です。創立は比較的新しく慶安4年(1651)となっています。開山は愚溪膳哲和尚、開基は旗本松平長三郎忠孝です。その祖は深溝松平であって、忠孝は吉田城主松平主殿頭忠利の弟忠貞の子で、忠貞は元和5年(1619)将軍秀忠に従って伏見城に滞在したとき、場内において没しました。享年32歳でした。忠孝はそのとき四歳でしたが翌年跡目を相続しました。後見者は永沢太郎左衛門で中屋敷五四鈴木みちさんの家の祖先にあたります。忠孝は長じて西方、大草、赤根、河原田、八幡を領し1200石を得、西方普請奉公、御先鉄砲頭などに任ぜられたが、元禄5年(1692)に死去しました。この寺には歴代中尼僧が多く、格も平僧地でしたが法住寺18世榊原音禅老師が本庁へ申請して法地へ昇格させました。法地開山は音禅老師が初代で現住多々内舜英和尚は5世となります。
本堂は文政4年(1821)の改築で、現住始め檀家の協力により昭和47年に屋根替えを行い、庫裡は四十九年に新築されました。書院は昭和2年に新築、のち50年に屋根替えをし、開山堂は47年に改築され、今年59年に内部改葬を終了しました。
境内にある弁天堂は、もと、広幡神社の大松の下に鎮座されてありましたが、大正7年9月の暴風雨で破壊され、拝殿内に仮安置の上、大正14年に有志の力によって当寺境内に移され、新築の上同年7月2日入仏式を執行され、これは盛況であったといいます。47年にさらにまた、今のところに移転となりました。弘法堂は昭和11年に建てられました。
境内の水子地蔵尊は、小林玄一、木村文三の2氏総代であったとき発願の上、57年10月建立をみたもので、主旨とする所は水子の供養を近くて気軽に参拝できる場所に安置してもらえたらという望みに答えたいとのことで、開眼後はたちまち、各地からの参拝者でにぎわい感謝されています。夕方にくる人が多いようです。
当寺は広幡神社に接し、しかも寺が神社を囲続するような境内の形となっており、神仏習合の風が最近まで保たれていたといえます。境内には西方の旧家鈴木家の位牌と墓があります。寛文8年(1668)に没した直往院立誉溝入居士を初代とし、8代まであります。寺領として田畑山林が5反余りありましたが、農地改革により失いました。境内に豊橋の俳人白井冬青の句碑があり「この石のかげののび行く遅日かな」と詠まれます。いい句ではありませんか。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和59年10月15日号より