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御津町商工会

㉑ 普沢寺『広済寺』

137.png当寺は字西郷50.51合併地にあって、法住寺の末寺です。曹洞宗寺院で山号は普沢寺といい、普とはあまねく、沢は恵みで、広済とは広く大衆を救い上げるという誠に有難い山号寺名といえましょう。本尊様は古書には阿弥陀如来とも記されていますが、和尚の話に釈迦如来であるとのことです。
 この台座裏に黒書銘がありますが始めの方が読みずらく、途中から「点眼法住寺3世和尚、当寺住持宗口代76歳之時」とあり、「千眨明暦2丙申年(1656)南呂(8月のころ)念8日(28日)」と書かれてあり、330年ほど前の仏像となります。
もと、今の境内に法林寺という寺があり、広済寺はここより北方の字神場にありましたが、地震か台風によって大破の被害をうけましたので、それを機にこちらへ移転し法林寺と合併したものと言い伝えられています。本堂正面の楯間に地蔵尊詠歌額があり、その裏に「安政7年(1860)3月11日開眼2付、今般大破故、当所大工豊三郎寄付之、本山16世」と書かれているのは、この移転の時期を示したものと思います。
広済寺の開山は楽雲音公首座であって、この方は弘治3年(1557)に示寂されておりますから、それ以前御存命中に創建されたものといえます。
寺の北方に8月氏の居住した八月城という城があって、数年前に付近から中国銭ばかりを出土したことがありましたが、この8月氏に縁のある弁天様が境内総門の傍に池をうがってそこに祀られていましたが、現在は本堂の向かって左に弘法様と共に安置されています。
昭和28年の13号台風によって総門は倒壊しました。本堂へ向かって左方に独立した十王堂があって、その中心にお地蔵様が祀られてありますが、文政3年(1820)制定の吉田近辺三六所地蔵尊詠歌の30番札所となっており「頼もしなあまねきさわの山川の広くわたせる寺の御法は」という歌になっています。十王仏は閻魔大王の台座に「尾州名護屋本町通12丁目、仏師井上重兵衛同又兵衛、像之作、安永戊戌年(1778)、右十王13鉢」という銘があります。十王の表情は豊かで各々の役柄をよく示しています。この十王堂も神場にあったとみえて、同地の小字名に広済寺畑、十王前、堂の後などの地名が残っています。
明治末に掲げられた狂俳額が向かって右に、文化12年(1815)に奉納された壺仙という78歳の俳人がまとめた狂俳額があります。お地蔵様の縁日は旧11月23、24日でした。大正3年2月当寺は法地になりました。現住は加藤見昭和尚です。境内は掃除が行届き参拝者に安らぎをさそいます。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和59年12月15日号より