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御津町商工会

⑬ 隣海山『入覚寺』

129.png字西48に所在して山号を隣海山といいます。潮の香近きところということでしょうか。真宗大谷派に属しもとは中本山佐々木の上宮寺の末寺でしたが今は関係がなくなりました。御本尊は阿弥陀如来です。また、本堂脇檀に在る聖徳太子像は、今泉唐左衛門が伊勢より譲受けてきた物だと伝えられています。文明8年(1476)に開基受行坊釈西善法師によって創立されました。むかしは西法寺といい只今の火見櫓のある所に西御馬の八幡社があってその西南に接していまの石黒弘康氏宅付近にあったのですが永禄年中(1558-1570)に現在地へ越してまいりました。正保4年(1647)本山から阿弥陀様の木像を下付されたときに寺名を入覚寺と改めたといわれます。代々の住職村上氏は遠く具平親王につらなる村上源氏の流れで村上新三郎義道の子源八郎義茂が仏門に入って西善法師となったのですが、後世に及び明治8年当寺の村上界雄の娘鶴代に配して兵庫県氷上郡の広崎氏から養子に入りましたのが村上専精で、明治から昭和にかけて仏教史学の泰斗として世の尊敬をうけました。また仏教統一論者としても著名でした。明治32年文学博士となり東京帝大や早大の講師に聘せられ大いに仏教史学研究の気運をつくることに努力されました。後には名誉教授となられましたが、かつて対象10年東京帝大の安田講堂の建設に当たっては村上博士ならではの信望をもって祈衝に従い、あの寄付ぎらいの安田善次郎翁をして100万円という大金を出さしめたことは大変有名な話です。博士が当寺に帰省のおりの座談会の席で、一農民曰く「村上さんは文学博士になったのであちこちから揮毫を頼まれる。字が下手では困るのでこのごろは手習いを始めたそうな」というと「いや、自が下手だからといって博士の値打ちは少しも下らぬしかし書道は精神修養に一番よいことが分かったので始めている」といわれ60になってから修二にいそしまれたということでありこれは筆者が父からよく聞かされた話でした。昭和四年79歳で没せられたが多くの著書を残され、30余種にわたっています。入覚寺はとうに実弟の流情師に譲られその養子順円師の嗣子専竜師が現住となっています。博士の子竜英氏は旧熊本高校教授でその子健蔵氏は明治38年祖父の創立した東京東洋女子高の校長となり今年80年記念式を行われるとのことです。
寺境広大で巨松の間本堂が屹立しこの53年に壮大な庫裡が完成され立派になりました。墓域に郷土の史家和算家渡辺富秋の墓があり、また境内の一角に57年4月に建てられた「一生わが親しみ仰ぎし古への引馬野みとの甘し麗し」という御津磯夫氏の歌碑があります。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和59年4月15日号より