当寺は金野字山本57に所在し、臨済宗妙心寺派に属します。山号は竜嶽山といい本尊は阿弥陀如来です。寺伝によれば、天平元年(729)9月18日聖武天皇の勅願により開山たる法相宗行基菩薩が創立し、自ら六観音(聖観音、馬頭観音、千手観音、如意輪観音、准胝観音、十一面観音)の像を彫刻して安置し七堂伽藍をそなえ、仁王門には御宸筆の勅格を掲げてあったとのことです。また、寺院の修繕に充てるため近村を寺領として下賜されたといいますが、後に文安元年(1444)3月足利八代将軍義政がさらにこの由緒を明かにし、寺勢を隆盛ならしめんとして寺領の改正を行い、記念に文安3年10月梵鐘を鋳造して納めたといいます。「此方教体、声為能詮……」という4字句80字の偈銘があり松尾に本願沙門賢秀、大工左衛門尉と記してあります。この鐘はさいわいに戦時の供出を免ぜられ京に残されています。(慶弔以前の鐘は残しその後の新しい鐘は兵器製造のため供出を命ぜらえた)天正3年(1575)長篠の戦いがあったとき織田信長が諸寺を焼きはらったので当寺も兵火にあい建造物宝物等が為有に帰しました。しかし、焼け残ったものでしょうか六観音、仁王の首2個等があります。寺が盛んなころにはお灯明代の領地とされていたと伝えられる字油田のうち僅かに一反1畝14歩が残されたということが慶長検地帳に明らかになっています。寛永18年(1641)11月竜嶽山から現在地へ移転になりました。もとの寺院跡は奥の院といわれ現在も廟所拝殿を有し、その場所は五井山の東北250メートルの山頂近くにあり眺望絶佳のところです。
また、もと法相宗であったものが延享元年(1744)正月臨済宗に改められました。当寺の法要供養の主なものはお薬師様が10月7日に観音様のお祭りが9月17日につとまります。なお無住の松沢寺から預かりの弘法様は旧3月21日にお祭りしています。本堂の見物は慶応3年(1867)の再建で庫裡は傷みがひどく住職並に檀徒の協力で改建され昭和58年8月竣工をみました。三門は、珍らしく棟に鯱をのせていますが、これは本多候の伊奈城城門と伝えられもと、天保初年(1830-)東漸寺から広石の浄宝寺が買取り三門として建てたのですが腐朽が進み、大正6年浄宝寺の三門新築後当寺へ譲られたものです。寺領として耕地九反七畝余山林2反余ありましたがほとんど農地解放で失われました。現住は久留宮義鑑和尚です。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和61年4月15日号より