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御津町商工会

⑳ 全宮山『松林寺』

136.pngこの寺は泙野字六角14にあり、曹洞宗の法住寺末寺です。山号や全宮山といい、本尊様は薬師如来です。
創立は文永5年(1268)と言い伝えられますが、これは元の使者が太宰府に国書を持参した年であり、かなり古いころのことで初代の開山は詳かでありませんが、「神社を中心としたる宝飯郡史」によれば泙野神社は聖武天皇のころ、飯盛長者が同社を創建して以来同家がこの神社を支配してきたのですが、竜光寺をたててからは社務は竜光寺の手に帰し、応永年(1394-1427)のころこの寺が衰退し力がなくなると、松林庵が代って支配をしたということでありこの時代既に松林寺は存在していたものと推察されます。ずっと後になって延宝2年(1674)旧領主松平長三郎が法住寺3世であった環中祖轍和尚を招請して草創開山としたが、その後寺運は衰退いたしました。
中興の開山は玉潤観嶺和尚であって、この人は荒れ果てた当寺が霊験あらたかな薬師如来の霊場たることを惜しみ、ぜひ、伝法地としようと発願したのですが果さずに示寂せられたので、浄山舌溪和尚がその志を継ぎ明治5年に種々画策して伝法地たらしめ、玉潤和尚を法地開山といたしました。
もと本堂は茅葺きでしたが、嘉永元年(1848)火災にあい同五年に再建し、昭和35年12月に屋根替えを施しました。このとき棟木に直接筆を染めた棟札銘が現われました。それには「奉再建本堂一宇、満蓮社教雲之代、寛政六寅歳12月4日上棟」と記されておりました。少し、前述の年号と違いまた浄土宗の僧侶の名が書かれてあるのは、いかがなことでしょうか。
さて、鐘楼は九世大安益法和尚が明治39年に建てましたが、その鐘は戦時に供出されました。松林寺には名前のとおり松の古木が何10本と繁茂しており、戦時には軍用船舶材料として20本も供出したとのことです。なお残された松も本堂の用材としてつかい、天井版等に利用されています。
松林寺の管理下にある境外地堂宇として字仲の坪にある阿弥陀堂はお地蔵様を祭り、8月24日のお祭りには福引やお接待が行われ、にぎわうとのことです。また御津中学校の南にある字宮永の薬師堂も境外地で、創立は明かでありませんが、京保時代(1716-1735)の地図には既に薬師と記載されております。眼病に霊験あらたかで西方、広石の人がよく参拝されます。戦前戦中花柳界の芸妓はなやかなりしころは芸者衆が毎日のようにお参りにきていました。縁日は旧3月8日です。当寺には寺領として1反6畝ほどの土地があり、住職が管理維持しております。現住は第12世大原義政和尚です。

       広報みと❼文化財 (寺)  昭和59年11月15日号より