この寺は字鎌田128に所在し境域約700坪あって近く音羽川に接し、万古の松籟を聴く閑寂地です。浄土宗大恩寺の末寺ですがもと大恩寺の説教所であったといわれます。山号は義良山といい、どういう意味をもったものでしょうか。ご本尊は阿弥陀如来で善導大師と法然上人とが侍立しています。創立はうのころか分りませんが寛永13年(1636)の大恩寺の松寺調中36ヶ寺のうちには載っていません。しかし追記末寺名のところには出ています。竹本祐治氏所蔵文書元禄6年(1693)のものには庄屋六左衛門と清右衛門とが領主松平和泉守の家臣と思われる大塚伝右衛門に差出した口上之覚に「当村蔵春庵代々浄土宗御津大恩寺末寺粉無御座其上寺地之儀水帳(検地帳)にも上畑弐畝歩、蔵春庵除地(免税地)にて古跡偽り無御座候へ共(後略)」と出ているので少なくともこのころには寺があったわけです。
竹本家の文書に「太政官額田県之時、三州宝飯郡下佐脇村羽鳥鎌田村浄土宗蔵春庵ト申竹本三郎左衛門之持庵、比度御1新2付百姓相也三郎左衛門の地別に仕候、竹本春蔵ト申候、為当村大副長竹本四郎左衛門より名字付春蔵と仕候御役人森下嶋生田要人様より申付有之三郎左衛門江如右之相定メ置申候。明治五年壬申(1872)8月30日、羽鳥ニツ宮神主、竹本鎌田郎常昌四11才」とあり、これによれば竹本家の持寺であったが蔵春庵という寺名を逆に読んで竹本春蔵という個人名の地主にして届出たもののようです。
この寺の脇檀に霊験あらたかな延命地蔵様があり子授け地蔵、長寿の地蔵として名高く、文政3年(1820)制定の東三河三六ヶ寺地蔵尊詠歌の第27番札所として「とことわに春を蔵せる寺なればみのりの花の何時もたえなる」とうたわれています。寺には檀家らしいものはなく、鎌田の島の寺ということです。寺領として3反ほどの田畑がありましたが戦後の農地解放で失ないました。昭和30年ごろ蔵春寺と改称せられています。現在は岡田敏夫和尚です。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和59年2月15日号より