当寺は字御所32に所在し山号を景福山といい、ご本尊は観世音菩薩であって臨済宗妙心寺派長松寺の末寺です。うしろに白川の清流を負い前に三河湾の波濤を聴く静かな所に位置しています。当寺の開基聯室祖芳和尚はこの地を霊場なりと喜び草庵を結んだのでした。それは、104代後柏原天皇の文亀年間(1501-)のことで戦国時代のさなかでした。この後柏原天皇のご宸翰が吉良の花岳寺にあり国重文になっていますが、海会寺は花岳寺との縁が深くそのことは花岳寺の古文書に明かです。華蔵寺と長松寺との交流も、末山当寺と花岳寺との縁に介せられていわしまいかと思います。開基和尚は永禄3年(1560)に示寂しその後法灯連綿として栄え現住は第15世藤井快洲和尚に至っております。歴代の住職が一貫して抱いてきた心掛けは、檀家をとってその信施で生活を支えるという考えを持たず自己の究明乃至修業に努めることを第一とし併せて衆生の済度を図ることを平常の信条として参って来られたように聞き及びます。9世天岩祖順和尚のとき文政10年(1827)9月26日夜失火により本堂庫裡が全焼しましたので、和尚は責任を感じ直ちに復旧に力を致し、多年三河各地を托鉢してまわり集められた喜捨金など全60両をもって美事に寺を復興したのですが、惜しくも5年後に示寂されたということです。
それから160年後の昭和58年に現住和尚により腐朽した本堂の再建新築をみたわけですが、文政の火災に奇しくも運び出されたご本尊を移し参らせたところ、高さ5センチの胎内仏があることを発見したとのことです。なお、当寺々領として5反3畝の田畑がありましたが戦後の農地解放で失われました。境内1反4畝余のところ3畝ほど道路となります。なお、明治32年に住職の祖考禅師が渥美郡七根村から霊験あらたかな子安地蔵尊を勧請してお祭りしたところご利益いちじるしく、8月24日の命日には4年前のご開帳が行われ戦前は村芝居などの余興があってにぎわいました。女性の信者が多く願意を表するため髪を切って束にしたものを奉納したものが多いときは20束位あったということです。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和58年10月15日号より