当寺は広石字御津山1にあり、浄土宗大恩寺の末寺で山号は灯明山といいます。本尊は千手観音様です。寺伝によれば、開基は飯盛長者、開山は行基菩薩です。宝飯郡誌によると天平年中(729-)の創立で国文尼寺と号したということです。
むかし、この村に飯盛長者が住んでいましたが、ある日、最愛の一子を失ない悲歎にくれていたところ、毎夜戸外で幼児の泣き声が聞こえるので、よく耳をすますと我子の声に間違いなく、ますますなげき悲しんでおりましたがそのとき折りよく行脚中の行基菩薩に出会いなぐさめられました。さらに行基は、長者の愛児のために、手づから観音像を造って与えられました。長者はこれを本尊として御津山中に一寺を建立いたしました。その後、年経て応永年(1394-)になりますと大変世が乱れ大恩寺の前身である浄光院などとともに荒廃の一途をたどったのですが、明応9年(1500)、善誉清欣が再興の手をさしのべ、それを機にむかし竜神がこの寺の杉の木のてっぺんに献灯し不滅の光りを放っていたという言い伝えにちなみ、寺名を竜光寺と改称したということです。
古老伝えていう。万治、寛文(1658-)のころ御津山で銅鈬を掘り出したが、それは国文尼寺(竜光寺)で使われたものであろうかと。また、塩尻という史書には御油駅の南、水戸山にて宝鈬を掘り出したので名古屋の殿様に差上げたところ、瑞公より褒美として銀貨を頂いた
云々と記されているといいます。岡田氏の秉穂録にも同様のことがでているとのことです。
明治40年3月本堂庫裡が建立されました。戦前には河原力、山口五六氏等が世話人でありましたがその後、昭和34年の伊勢湾台風により屋根を損傷したので現在の建物に改築されました。大工は山口一三一氏でした。
寺の名は一般にゆうこう寺と呼び、りゅうとは読まないようです。西浦町に竜田というところがあり、これもゆうたと呼んでいます。むかしの俚謡に「言うな言うなゆうこう
寺、言うたらあかん大恩寺、叱られたんのの養円寺」というのがあって、何かこれは、あることの機密を洩らすまいとする、いましめの歌のようです。
現在、本山の中島教導師が兼務住職をしており、橋本太恵子さんが留守を守っています。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和61年5月15日号より