当院は字西40に所在し、山門鐘楼等の完備した結構壮大な大寺です。真宗大谷派に属しもとは中本山として額田郡針崎にある勝鬘寺の系統でしたが、今は関係をもっていません。御本尊は阿弥陀如来です。境域1300坪ほどあって松や欅の古木にかこまれています。
山号を満照山というのは現在赤松氏祖先の名をとったものとみるべく、赤松氏は南北朝時代播磨国の守護職として勢力のあった赤松則村依頼の名門で、則村は南朝に忠勤を励んでいたのですが後には足利尊氏に属した武将ですが、仏門に入って円心と号しましたが修業時代慢心を起こしたことがあり、ある寺を訪いそこの和尚をやりこめてやろうと門に立つと11歳位の小僧がいたので、この寺は何というかと問うたところ、小僧はそれに答えず「お前の名は何というか」としっぺ返しにいったから「おれは赤松円心じゃ」というと「この寺は別法寺と申す」というと小僧は言下に「松に古今の色なし、いかなるかこれ赤松」と切り返したので小僧でさえこれだ和尚はもっと強かろうとそのまま早々に逃げかえり、心を入れ替えて真面目に参禅したという話があります。この円心から5代目を満祐といい足利六代将軍義教によって弟義雅の領地が没収されたことから、遂に嘉吉元年(1441)6月24日義教を殺害して領国に引揚げたのですが、幕府の追討軍に攻められ父子共に自刃して果てました。
このとき、満祐の三男満照は幼少であったため母に助けられ三州碧海郡へ落ちのび、のち、寛正2年(1461)土呂の本宗寺において蓮如上人に謁し、浄欽という法名をいただき同郡三木村に三木道場を建て、布教に従事すること30年にして永正12年8月(1515)入滅しました。子孫は浄欽を襲名して道場を継承したのですが永禄年中松平家と佐々木の上宮寺との紛争に端を発し、真宗は壊滅的打撃をうけ三木道場も信州飯田に避難のやむなきに至り、そこの善勝寺に寄寓したのですが、やがてほとぼりもさめたので元亀元年(1570)三河に立ちかえり、とりあえず宝飯郡赤根村に仮寓して道場を守り、その間に御馬村に1寺を建立し敬円寺と名付けました。境内にある古い五輪塔は開基浄欽の墓といわれています。檀徒の協力により昭和五十七年四月本堂の屋根替が完成し輪奐の美を加えました。創立以来と思われる槇の木と伊吹の木がありましたがいかなる都合でしょうか伊吹の木が伐採されたのは惜しかったと思います。山高きが故に貴からず樹あるをもって貴としとなす、社寺は古木を存することが一つの宝ではないでしょうか。法嗣連綿として現住赤松基氏は20世となっています。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和59年3月15日号より