当院は、むかし、大恩寺の山内にあった塔頭13ヶ寺が次第に減少して、いまは、冏運院と当寺と2ヶ寺のみ残されたものの一つであります。所在地は、字御津山6で総門を入ったすぐ右手前にあたります。
本尊は阿弥陀如来です。創立は天文13年(1544)5月であって開山は広誉浄印大徳であります。開基は寺記には波多野源右衛門と出ておりますが、次にのべるとおり再建年月とはかなり距たりがあり、中興開基ということでしょうか。この人は松平丹波守に仕え200石を得ていたと森下の波多野家系譜にのっているところの人であろうかと推察されますが、名は忠頼といい没年の記載が文脈不明瞭であって、多分、寛永9年(1632)に死亡したというのが、この人に対する説明であろうと思います。松平家は戦国時代に二連木城にいた戸田氏の後裔で、松本、明石、淀、加納等の城を転々とし後には志摩国鳥羽城主でありましたが、松平の称を許されておりますので公私文書にはあまり戸田の氏を用いておりません。戸田氏はまた東田の全久院を創立したことで知られております。
本堂は4間半に6間、庫裡物置は四間半に3間半になっており、安永4年(1774)に建てられ昭和41年に屋根替えをいたしました。3坪ほどの位牌堂は昭和27年に建てられました。
門を入ったところ、左手にお地蔵様がまつられています「安延業無地蔵菩薩」と称し現住神谷寿英師の令弟が交通事故で亡くなられたので、菩提を弔いあわせて広く一般の人々の業禍の絶滅を期して祈願をささげようという悲願により建立されたもので、昭和52年度より毎月24日地蔵講がつとまり、志を同じくする信徒の人々が菓子を持参してきて100万遍のお念仏供養に参加され今日に至っております。
寺の行事としては、4月29日に祠堂施餓鬼を行い、8月20日にはその1ヶ年の新亡の施餓鬼が厳修されます。
かつて、明治末年のことでしょうか、兵の野児童が北部小学校から分離して南部小学校に転入させられたことがあり、若干の指定がこれをきらって当寺に寄留届を出し、実際にこの本堂に起居をしたことがあるといいます。(河原松次氏談)その少年時代の心に焼きついたものとして本堂内の扁額のうちに考の心を説いた1文があり、当時この本堂に仮寓した者は特にこの額のことを懐しみいつまでも話題にしていたということです。あまり寺史に関係のない話ですが、1エピソードとして加えました。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和60年5月15日号より