豊沢字引釣21にあって曹洞宗に属し、本寺は豊川の妙厳寺です。山号は鶴臨山といい、開基は即天院玉寅法印といいます。本尊は阿弥陀如来で、寺伝によれば戦国時代、当地の豪族であった波多野氏は代々森下入道ととなえ勢威がありましたが、その1人森下入道全古は名を忠基といい松平清康に従い永禄元年(1558)今川氏と戦い屋根の寺原において67歳で討死しましたが、この人の長男と次男はそれぞれ秀治、秀尚といい丹波八上城で信長と戦い、安土城に送致のうえ謀殺されました。三男の忠茂は後に正茂と改め天文15年(1546)三州上の広久手の戦い等で武功をたてましたが、永禄3年5月桶狭間の戦いで41歳をもって討死しました。戒名を正茂院堅相受躰居士といいます。そこで、正茂の父の忠基の末弟にあたる忠政は多分武士であったでしょうが、後に出家して真言宗の僧となり玉蔵院と号し、のち即天院と改め玉寅法印と称しました。この人が甥の正茂が桶狭間で戦死したのでその菩提を弔うため。正茂の名をとって正茂院という寺を森下村の寺中に建立してその開山となり13石余の田地を寄進寺領としました。後年、善虎入道が出願して御除地(免税)としたとのことですがこの寺中の地は低地のため御津川の氾濫になやまされたので正徳年中(1711-1716)に当時の波多野九郎右衛門宅の東隣に移転いたしました。玉寅法印は天正4年4月(1576)になくなりましたが、この正茂院がいつの日か堂音の松茂庵になったものと思われます。寺伝によれば鶴臨山というのはその祖政家の戒名鶴林院泰安宋宗道居士(系図では鶴臨院)の院号からとったものとしていますが、波多野系図ではこの戒名は正茂の孫の勝定の項に記してあり、かつ、系図によれば政家の戒名は霊鷲院殿覚海道円大居士となっており何れを正しいとも決し難く一応後考をまつことにしておきます。松茂庵はわずか数戸の檀家によって維持されてきましたが戦後になって台風のため本堂が損壊したのを機に、仏像仏具を大字西方の忠勝寺に預けたので自然と廃寺に帰しました。運ばれた仏像の中には極彩色にいろどられたかなり大きい観音様らしい宝冠をいただいた坐像の仏体が忠勝寺に保管されていましたが、かって、ここの先代が妙厳寺系の寺へ遷したいと考えているといわれていたことを記憶しています。なお、松茂庵の本堂は明治12年の記録によれば奥行3間半間口六間、庫裡は奥行3間半間口2間半外に2間に1間半の物置となっており、寺領としては田畑山林で8反9畝ありましたが農地解放等で失われてしまいました。現在境内は竹藪と化し、門前の石垣と門の向って左に釈迦(弥陀)3尊と馬頭観音の2石像が石室の中に祀られ近くに波多野家の墓が存じています。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和60年12月15日号より