小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

㉘ 照鎮山『海音寺』

144-1.pngこの寺は浄土宗寺院です。広石字船津39に所在し山号は照鎮山といい、ご本尊は阿弥陀如来です。古色蒼然たる尊容はかなり古いもののように拝察されます。
大恩寺第九世照蓮社鎮誉賢阿樹公大和尚を開山とします。創立は永禄5年(1562)と寺記にありますが広石村誌によれば永禄九年11月とあり、明治12年広石戸長竹本林作の報告書では9年7月となっています。11と七とは字のくづしぐあいで、どちらにも読み誤まりますのでそうなったのでしょう。ともかく、永禄のころ野田城主であった菅沼織部正定盈の妻は長沢の松平上野介政忠の娘であって、政忠の妻は松平清康の娘であり、ちなみに、政忠は永禄3年桶狭間の戦いで討死しましたがその子康忠の妻は清康の子の広忠の娘、つまり徳川家康の妹ということになります。この定盈の妻が永禄9年4月19日になくなり当寺の開山樹公大和尚が大恩寺の住職をしていたときで菅沼家の請により大恩寺にて新葬をいたしました。法号を浄隆院殿玉蓮妙清大姉とし今も大恩寺にその墓がありますが菅沼家より供養料礼物としてもらった金で田畑若干を買求めておかれたが、この海音寺を創建したあとこの田畑は海音寺に寄付さ144-2.pngれ、同時に自信は開山となってここに隠居したわけであります。その当時は海雲寺と称していました。その後、第3世釈誉祖順のときに私の寺はこういう縁故がありますと上記の経緯を徳川家康へ申上げたところ、慶長6年2月(1601)伊奈備前守から寺領として5石を与えるという黒印状を頂戴したとのことですが、古老の話ではいつのころか紛失してしまったということです。宝暦4年(1754)のころ寺号を海音寺と改めました。境内の一隅に弘法堂があり観音堂もかね西国三三番の観音様がお祀りしてあります。その中に木片観世音菩薩という尊像が安置されていますが、これは文政3年(1820)御津山の北麓に蘆案というところがあり開墾せられることとなりましたが巨木の根があって人夫が斧で切り割ろうとするのですが刎ねとばされて割ることができずふとみるとそこに観音様の形をした北辺を発見したので掘りとり、寺に安置したとのことで有難いことであると評判になりました。また弘法様は宝飯郡六六番厄除弘法として知られ旧3月21日にはお接待が行われます。寺領の田畑は戦後の農地解放で全部を失なったとのことです。前住新美俊玉氏の妻留守を守り大正寺の小笠原鳳瑞氏が兼務住職となっています。現在本堂の新築中で内装が行われています。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和60年7月15日号より