当寺は字北浦16に所在し臨済宗妙心寺派の巨刹で、中本山となっています。創立は応安2年(1369)で滋賀県愛知郡の永源寺にいた円明証智禅師と勅賜された松嶺和尚が開山です。開基の人物は明かでありません。御本尊は如意輪観世音で紀州那智山の御分身といわれ、その昔、下佐脇は紀州熊野と縁が深く当寺は熊野権現を祭る佐脇神社の奥の院といわれてきました。開山の松嶺和尚は中国の宋の国に留学して勉強した新知識でしたが、留学中に台州西河において道観居士范睢という意社から製薬の法を会得して帰り混元丹と名付けて販売 しましたが、依頼明治維新のころまで続いていたといころ新政府は売薬禁止の令を出したので廃止してしまいました。いま万治2年(1659)に住職冷天和尚の作った薬箱が唯一つ残されています。当寺の住職は吉良の華蔵寺との交流が深く義士劇に出てくる吉良上野介は領地吉良と江戸との往復にあたって、長松寺に立寄ったことも多く上野介使用の膳椀一式が保存されています。義士劇では随分評判が悪く作られていますが領地吉良では善政を施したので名君としてあがめられています。「世間何事ぞ醜名伝う。治水愛民徳を敷くこと全じ。来って古墳を掃って住昔を思う。華蔵寺畔落花の天」筆者は公の苦衷を察してかつて右のような巴調の七絶を賦し華蔵寺に呈したことを思い出します。長松寺には狩野探幽、常信、小堀遠州等の画幅書状があります。
明治初年、寺領として3町歩ほどの土地がありましたが農地解放によって悉く失われました。
本堂に祭る秋葉様と半僧坊は12月17日に大字区が主催し万丈が導師となって祭事を行い、狐の面をつけた2人が手に手にベンガラを塗りつけたどんきという棒を持ち、カラス天狗と天狗各一が加わり寺を出発して明王院まで行ってもどりますが、ベンガラを見物人にぬりつけようとして大騒ぎが起こりますが秋葉信仰の一変型でしょうか。当寺の叔叢禅師は名僧で郡長の竹本元すぐ、石黒須賀雄等は門人でした。当寺の花園寛州和尚も弟子で明治14年、本山妙心寺の管長と出世せられたが晩年は再び当寺へ帰山し同25年示寂されました。なお応山会の菊保育園の建物は今年3月7日落成し面目を一新しています。