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御津町商工会

⑯ 慶雲山『本光寺』

132.png当寺は字西96にあって山号を慶雲山といいます。ご本尊は阿弥陀如来で、創立はつまびらかでありませんが開山は故鑑禅師といわれます。その後天文2年(1533)一法禅師によって中興されたとの事ですから、それまえに寺勢がかなり衰微していたことが察せられます。総本山は妙心寺で中本山は嵩山の正宗寺です。阿弥陀如来は春日の作といい霊験きわめてあらたかと伝えられています。90翁石黒寿一氏の歌に「楽住生なさしめ給へとおろがめば弥陀は黙してまたたきもせず」というのがありそれはこの寺のことかどうか聞きもらしましたが、どこの阿弥陀様でも霊験は同じことでしょう。なおほかに翫地蔵といわれるお地蔵様がありますが、子供の遊戯の状を現わしているとのことですが、縁起をみるに行基菩薩が額田郡の那智山にて千体の菩薩を彫刻して衆生を救われたといいますが、むかし、山がさけ、水が一時におちるような天変が術原子村人が驚いてみると引馬の原上に白いもやが立ち木像の地蔵尊が建っておられたのでおまつりをしたところ、一夏を経て姿を消されたが一陣の風雨とともにまた飛来せられたりして、姿を消されることはたびたびであったとのことですが村人が所願をこめお祈りすると必ずかなえて頂けるので近郷まで評判になったそうですが康治年中(1142-)天台宗の僧が来宿して村民と協力し一宇を建て原上山地蔵院と名付けましたが、その後、衰退の道をたどり寺領もうばわれ堂も朽ちその上、天文9年(1540)の台風により建物は破壊せられたので、やむなく本光寺に安置することになりましたが霊験をしたう信者が殖えご利益をこうむる者多数があったといわれます。
明治5年学制がしかれたころ当寺は学校として利用され、明治10年ごろに引馬学校が出来たころまでつづきました。その後、明治21年の町村制発布以後、同39年に御津村が成立するまで御馬村役場として使用され、石黒速雄、仲田九郎兵衛、萩原喜一の諸氏が尊重をしておりました。現在は御馬区の区事務所となっています。農地解放以前は3反御畝余の寺領を持っていました。境内に豪商鈴木忠兵衛家の墓があり、国学者、歌人の鈴木光重の墓もあります。中島みつさんが堂守をしております。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和59年7月15日号より