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御津町商工会

㉗ 西方山『大正寺』

143.jpg当寺は字広国58に所在する浄土宗寺院で山号を西方山といいます。本尊は阿弥陀如来で、霊験あらたかのみならず、大変すぐれた作と思います。御岳2尺6寸(786センチ)あり観音、勢至二菩薩を脇侍とし三尊はばらばらではなく台座に連結して造られ離すことはできません。この寺は大恩寺の隠居寺ということで引退した大恩寺の住職が入ることになっていました。旧来1町5反余の田畑がありましたが、農地解放で失ないました。それまでおおよそ大恩寺には百俵の年貢が入り、当寺には50俵入っていたとのことです。
当寺の創立は永正3年(1506)であって、開山は明蓮社聖誉智徳長栄和尚です。寺記によれば慶長19年(1614)中興開山2世行誉薫昌が本堂と庫裡を改築し、ずっとさがって天保4年(1833)に中興開山13世映誉音徹が本堂を改築し、且つ庫裡の修繕を行い寺門の経営に力を尽しました。
幕末から明治にかけ寺子屋が開設され第十九世の神尾成倫が師匠として読み書き算盤の3教科を教えましたが寺子数は15名位でした。この人は碧海郡青野村の生れで弘化4年(1847)大恩寺にて得度し僧となり嘉永3年(1850)から足掛け7年間を芝増上寺で修学をしたとのことです。さて、やがて明治5年38才のとき学制頒布を期に寺子屋は廃せられることとなりました。他方、広石では大林要助という人が天保時代より30名位の生徒に読み書きを教えていたといわれます。
明治以来本堂を村役場として供養し、また村のあらゆる祭祀用の仏像などを境内におさめ、総安置の寺として利用せられ昭和59年4月広石公民館ができるまで広石の公共、公会の用に供されてきました。大正15年祐誉瑞雲が庫裡玄関の荒れたのを改修し立派にいたしました。
本堂内には延命地蔵、十王仏、将軍地蔵等々多くの霊験あらたかな仏達が安置されており、おのずから心の引きします思いがします。このうち将軍地蔵は寺伝によると、長慶天皇の守本尊であったといわれています。また、延命地蔵は延命講が文政3年(1820)に制定した「吉田近辺三十六ヶ寺地蔵尊詠歌」の第31番札所となっていて「からだ山のぼりておがめみ仏の誓いはことに広石の里」という御詠歌が記されています。からだ山とは伽羅陀山であり地蔵菩薩の住処のことです。現住小笠原鳳瑞氏は若いころ時事新報記者として活躍し、また二・二六事件で有名な「今からでも遅くはない。すぐに帰ってこい」という兵に告ぐの文を草した大久保弘一中佐と心易くその執成しで軍属として華北に従軍したとのことですが、応接間には交友の広さを物語るサトウハチロウの絵や大菩薩峠の中里介山の色紙などが掲げられています。墓地に元国立豊橋病院長彦坂功氏家の墓があるのは奇しき縁と思います。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和60年6月15日号より

史跡『海音寺』 (広石)