当寺は西方字松本89にあって、貫道山といい曹洞宗太源派の寺ですが、本尊様は阿弥陀如来です。
寺の草創は新しく文禄年中(1592)との寺伝があります。西方には西方古塁というものがあって、これは池田輝政が天正8年(1590)に吉田城主となってきて、吉田を守る前進陣地として次の5ヶ所を設定しました。即ち、田原に伊木清兵衛、新城に片桐半左衛門、賀茂に戸倉四郎兵衛、牛久保に荒尾平左衛門、この西方には森寺政右衛門忠勝が配置されましたが何れも歴戦の武将で、各塁ともこの時期に新設されたものと思われますが、恐らく、森寺政右衛門はこの塁の鬼門に当る所に、この寺を建てて塁の鎮護をはかったものと考えられますが、慶長5年(1600)関ヶ原役の論功行賞で輝政は姫路に栄転し、森寺氏も随従して去ったことでしょうが、政右衛門はその前年の4年4月18日に53歳で死去したので当寺に葬られました。忠勝寺という寺名は彼の名をとって付けたものでしょう。しかし、特にそのことを証するものはありませんが忠勝の墓は、その子孫によって元禄5年(1740)に建てられたものです。墓には玉垣をめぐらしてあったと見えその台石が残っています。森寺氏は主君の池田家の分族から長貞という人を養るに迎えるほどで池田家の重心として扱われ1万石をもらい、池田姓を名乗ることを許されていました。当寺はこのような深い縁があって備前岡山の池田家の庇護を受けていたに相違ありませんが、古書類に乏しく今は僅かに岡山と書かれた文箱があるだけです。先代の話に、書類なども防空壕に入れておいたので雨水で損傷を受け残念ながら廃物と化したとのことです。昭和20年8月7日西方空襲により寺の周辺8ヶ所に爆弾が落ち、地蔵堂、鐘楼、山門などが破壊せられ、となりの農業会建物もやられて柱をつけたままの大きな梁材などが表広場にとんできたとのことです。防空壕は地蔵山にあり現住の母ゑつさんは8月21日に出産するほどの臨月近い身で、壕への出入は苦痛であったとのことです。この石地蔵尊は巨大なもので、日露役の戦病死者供養のため19世喚応和尚が発願して建てました。本堂にある地蔵様は霊験あらたかで8月23日には青年の人が寄付を集めてくれ、投餅や映画をみせてくれたりして賑わったといいます。今は福引をしているとのことで。元は辻店辺にあったという。「盆正月に会えなくとも忠勝寺の地蔵様で会いましょう」という俚諺があり、東三河三六寺地蔵尊詠歌29番札所で「明け暮れにおがむ心の忠勝寺、仏の恵みなどか無からん」と詠ぜられています。2町ほどの寺領は農地改革で殆んどを失いました。現住は澤田康成和尚です。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和59年9月15日号より