字西122に所在し山号は無量山といいます。浄土宗鎮西派に属し京都智恩院を本山とし中本山は大恩寺です。開山は潮誉上人で文明17年(1485)の創立です。安阿弥の作という阿弥陀如来が御本尊です。脇檀には不動明王がまつられていますが秘仏として厨子深く安置されており弘法大師作と伝えられています。一説に延宝8年(1680)京都の大仏氏雲松法橋の作ともいわれています。そして、その前に前立として御丈1メートル40の不動様が奉安されています。この不動様は真言密教の中心的な存在であり諸種の御祈禱に対し厚い感応を示す仏様であって、当寺の不動様は極めて霊験あらたかと噂され、病気平癒、災難除け、福徳の増進、子孫繁栄等の希望を祈祷することにより顕著な御利益がもたらされるといわれています。また、当寺にある雨乞い名号の一軸は東京下谷の幡随院、幡随上人筆ということで村民雨乞いに用いたもののようです。
本堂の向って左に独立した堂があって、ここには御馬村の十王が祀られています。村立の十王ということで元禄2年(1689)に創建されたのですが、明治6年3月6号にて「(前略)1状1町村限リ私立ノ庵室併辻地蔵路傍ノ観音ハ勿論、且又寺院墓所外ノ題目念仏之木石碑等総テ官許ヲ不請シテ造立ノ類、悉皆廃却申付候事。右ノ趣、正権区長、正副戸長ニ於テ篤ト遂調査、4月30日ヲ限リ処分ノ上、廃却ノ員数詳細為書出、一大区毎21纏ニ致シ可届出者也」という県の布達文が出されたので存立が危くなり翌明治7年当寺へ移転されたもので、これはむかし豊橋の瓦町十王堂にあったのを譲受けたものといわれています。
本堂は万延元年(1860)に建てられたものですが、過ぐる昭和28年の13号台風には水が床のところまで侵入してきたとのことです。山門外にある一基の墓は当所の義太夫節の名手波多野庸雄氏(天保5年生〈1834〉鶴沢七三郎)その子信三郎氏(慶応元年生〈1865〉竹本信太夫)父子を葬ったもので、門人故旧たちが追善のため大正元年に建立したものです。
当寺の現住職は村松良範師です。
広報みと:❼文化財 (寺) 昭和59年6月15日号より