本町の金野区と音羽町との境にある宮路山は標高362mで、古くから紅葉の名所として知られ、三河の代表的な歌枕でした。寛仁4年(1020)常陸国から上京した藤原孝標の女は、陰暦10月の末にもまだ盛りであった紅葉の印象を、「嵐こそ吹き来ざりつれ宮路山まだ紅葉葉の散らで残れる」と後年『更級日記』に書き留めています。
それから250年ほど後の建治3年(1277)に、京から鎌倉に下った阿仏尼も宮路山を越え、紅葉に常緑樹が立ち交り青地の錦を見る心地がすると、その『十六夜日記』に述べ、2首を詠じています。
こうした例によって、応永20年(1413)に東海道ができるまで、長沢関屋から宮路山を経て赤坂関川に至る古道のあったことが知られます。
これら紅葉や古道は山の北斜面、すなわち音羽町域のことですが、別項の三河に御幸の持統上皇に関する伝承が宮路山にもあって関心が持たれます。貝原益軒の『吾妻路ノ記』に「昔持統天皇御幸ナラセ給ヒテ頓宮アリシ所ナレバ宮路山卜云フトナン」とありますが、歴史家は宮道別の古姓があり『三河国神名帳』に正五位下宮道天神を載せることから、宮路の名が持統帝以前に始まるとしています。
山頂には大正5年10月に建てられた「宮路山聖跡」碑(高さ2.7m)があり、碑陰に持統上皇駐輦の伝承を刻んでいます。別項の「引馬野」で触れたように、歌人斎藤茂吉は『万葉集』巻一の引馬野踏査のため、昭和16年11月に本町を訪れ、雨中を宮路山に登り、次の二首を歌集『霜』に残しました。
引馬野ににほひし萩をみとめむと宮路山べをのぼりつつをり
宮路山つひにのぼりてたちこむる狭霧の奥の海をしぞ思ふ
東金野の奉仕で本町側からの登山道の整備も進み、山頂まで一時間足らずです。同区の多くの人が初日の出をこの山頂から拝んでいます。なお、山頂に嶽の城という古城があったと伝えます。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より