山号は広石山。『三河国宝飯郡誌』によれば本尊は聖徳太子作という阿弥陀如来です。真宗大谷派に属し開基は教亮で、この人は形原の松平勝右衛門の弟の松平源之介信清といい、応安6年(1373)41歳の時出家し、字広国に今もある観音堂のところに1寺を創立して浄見寺と号していましたが、応永6年(1399)67歳でなくなりました。この松平氏はたぶん形原松平の祖先でしょうが、『寛政重修諸家譜』にはでていません。
永禄年間(1558~1569)一向一揆によって真宗寺院が壊滅的打撃をうけたころ、碧海郡青野慈光寺の教明院教寿の妻芳華院は家康のいとこに当たっており、嘆願して従来通りに同寺ヘ朱印状をもらうことになりました。そのとき浄宝寺第6世正春は家康の味方であったといいます。そんなわけで当寺には東照宮始め代々将軍の位牌が安置されており、非常の節は御紋付提灯を使用することが許されていたことが明治3年4月松平了海より赤坂御役所に出した文書に記されています。別に正春へ家康の守護仏阿弥陀の尊像が与えられ、その縁により慶長6年(1601)2月伊奈備前守より寺領五石の黒印状が交付されました。
貞享元年(1684)3月浄宝寺と改称、寛政4年(1792)現在地へ移転し今の本堂が建立されました。当時、檀徒はわずか14軒だったそうです。また、18世松平融氏は昭和6年~12年まで東本願寺ハワイ別院輪番兼ハワイ開教監督として同地に赴任活躍され、その後当寺の20世となりました。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より