山号を竜獄山といい、臨済宗妙心寺派に属し、本尊は、阿弥陀如来です。寺伝によりますと、天平元年(729)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が創立し、自ら六観音の像を彫り、七堂伽藍をそなえ、仁王門には御宸筆の勅額が掲げてあったといわれます。
後に文安元年(1444)足利八代将軍義政は、寺領を改め、梵鐘を寄進したと伝えられています。
天正3年(1575)長篠合戦の時、織田信長のために寺を焼き払われましたが、観音と仁王の首2個だけが焼け残って保存されています。
寛永18年(1641)竜獄山から、現在地へ移転されましたので、旧寺院跡は、奥の院となり、観世音が祭られ、九月に盛大な供養が営まれます。従来は法相宗でしたが、延享元年(1744)に臨済宗に改められました。脇仏として聖観音の古風な木像とお前立ちゃ、薬師像などがあります。
山門は、珍しく棟の上に鯱を載せています。この門は、本多侯の伊奈城の城門と伝えられ、天保初年(1830)東漸寺から、広石の浄宝寺に譲られ、さらに大正6年、当寺へ移されたようです。
奥の院を経て五井山頂の電話中継塔へ至るまで観光道路が整備され、面目を一新しました。中腹には十一面観音の祠があります。
梵鐘(町指定文化財)
山門を入った右手に、鐘楼があり、ここに鐘銘のある梵鐘が吊るされています。寸法は、高さが87.2㎝、口径が51.5㎝です。
「大日本国参川州宝飯郡御津庄」「文安3年(1446)丙寅10月17日」「本願沙門賢秀大工左衛門尉」「為證作偈云、此方教体、声為能詮…」という4字旬80字の偈などが見られ、金割村が御津庄であったことや、造られた年月日、願主や工人名、この鐘のあらたかな功徳などを伝えています。
この鐘は、幕末と太平洋戦争に際して、廃仏毀釈・戦時供出の波を免かれて残り、東三河地域でも古い年代の優品とされています。
※殺生石
金野観光道路を登ると仲仙寺奥の院の建っている裏山に、殺生石という小さな塚が立っています。
昔、奥郡(今の渥美郡)に1人の猟師がいました。金割山で猪を射ったところ、見っ失ってしまったので、その血痕をたどって行くと、仲仙寺の奥の院に入って息絶えていました。
猟師はびっくりして、これは観音様が、自分の殺生を止めさせるため、猪の姿になって、お戒めになったと悟りました。即刻廃業の決意を手紙に書き、犬の首につけて自宅へ届けさせました。犬の引返すのを待ち、ここで犬と共に自して果てたので、村人は塚を建てて弔ったといわれています。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より