世界中で日本だけに存在する銅鐸は、弥生人たちが稲の豊作を祈ったり収穫に感謝したりする、農耕の祭りに用いられたといわれています。しかし、その用途については他にも説があり、弥生人たちが何のために銅鐸を作り、使ったのかはっきりしていません。銅鐸は、集落から離れた小高い丘の上などで発見されることが多く、ムラの共有する祭器として祭りの時だけに使用され、祭りが終わると再度土中に埋め戻されたとする考え方が有力な説となっています。銅鐸は、今までに全国で約五百個近くが確認されていますが、遣跡等の発掘調査により発見されたものはごくわずかで、大部分は耕作や工事などで偶然に見つかっている場合が多いのです。
御津町地域からは、今のところ3個の銅鐸が発見されたことになっていますが、実物が確っ認されているのは、広石の新宮山で見つかた通称「広石銅鐸」の1個だけです。この銅鐸は明治11年9月、新宮山の裏手の道路切通しで、村人が道普請中に発見したもので、高さ45.8㎝底の長径23.9㎝短径16.5㎝であり、渡辺錆治氏の個人所有となっています。表面の文様は、整然とした流水紋という特殊な文様で飾られ、鋳上がりも良好で、この種のものとしては県下に現存する銅鐸のうちで唯一のものです。
江戸時代の寛文年間(1661~1672)に水戸山(御津山)から銅鐸が掘り出されたという文献記録がありますが、記録だけで銅鐸の所在など詳しいことは一切不明です。
もう1つの銅鐸は、昭和59年ころ、豊沢字引釣地内で偶然に発見されたもので、高さ約65㎝くらい、近畿式であったといわれていますが、町外に持出されて行方不っ明となています。
【銅鐸は弥生人の豊作祈願の鈴だった】
銅鐸が水田稲作の祭りに使われる祭器とされた根拠は、香川県出土と伝えられる銅鐸絵画の中に、稲との関連を暗示する脱穀と高床倉庫の図柄があったからです。この銅鐸には魚をくわえる鷺と鼈、鹿や猪を狩る人、という構図もあります。
さらに『播磨国風土記』にある「鹿の腹を割いて稲の種をまいたら一夜で苗になった」という記事や、春から秋まで水田にとどまる白鷺は神聖視され(鳥型の弥生期木製品遣物)たらしいことなどから、銅鐸は水田稲作を始めた弥生人が豊作祈願の祭場に、鹿、鷺、そして祖先を招くために鳴らした祭器であったと考えられるようになっています。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より