新宮山の南西に西から東に帯状に横たわる台地があり、その突端に竹本城がありました。
ここは、字竹本と字船山に跨がる地域で、里人は「城屋敷」と呼び、面積1500坪余り、周囲に大堀をめぐらし明治維新ころまでは、その形跡をとどめていたといいます。
現在はその面積も往時の5分の1程となり、船山地内の一隅の高台に、わずかにその面影を残すだけです。ここには小堂が建てられて姫杉大神が祀られ、その南西に姫杉と称する杉の大樹がありましたが、枯死したため、昭和42年に切り倒され、その跡に一本の若杉が植えられました。
これは新宮古城ともいわれ、竹本袖脂の先祖発祥の地ということで、豊橋の名士大口喜六翁筆の大きな碑が建っています。
『三河国宝飯郡誌』によれば、築城年月不詳、天正年間、長沢松平上野介康忠の臣山田長門守晴政が居城したとあり、別の記録には建武年間新田義貞の「十六騎が党」の1人である高田薩摩守義遠の二男又次郎政季が築城し、姓を竹本と改め、その子孫が居城しました。竹本四郎左衛門成久に至り、主家今川義元の桶狭間敗戦で、永緑5年(1563)城を捨て、父重正の隠居地為当村に帰農したと記されています。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より