祭神は火の神とされる迦具士神で、火之夜芸速男神とも火産霊神ともいわれます。
遠州秋葉山は迦具土神の本社として古来名刹でしたが、近世に至り僧侶たちが鎮火の神として、これを秋葉山三尺坊大権現と称し、霊験いちじるしいと宣伝したので、その信仰はたちまち世に広まりました。しかし、明治以後、三尺坊を引き離し可睡斎に移されましたので、本来の姿にかえったわけです。
当社が森下の氏神様として創立された時期は残念ながらはっきりしません。森下には豪族として波多野氏が大沢山の南東に居城をかまえていましたので、当社は城の鬼門に当たり、その鎮護のために祀られたものと思われます。波多野家の崇拝と庇護をうけたことは棟札等によって推察することができます。
波多野氏は元をただせば藤原氏で、永平寺の開基として名高い波多野義重もその系譜中に名を連ねています。南北朝のころ、行近という人が今の神奈川県の秦野から三河に移って来て森下に住んだので、森下氏ともいいました。当社の最古の棟札は寛永2年(1625)九月のもので、「奉建造立秋葉社殿一宇、神主波多野半左衛門忠房、森下村庄長茂兵衛」とあります。忠房は旧城中にあった毘沙門、御子供殿、荒神、稲荷社等のにつとめたといい、また姫路の池田輝政に仕えた武士であり弓道の達人として知られ、貞享元年(1684)90歳の高齢で亡くなったと記録にあるそうです。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より