【広石郷学校】明治5年8月3日に学制が定められましたが、その4か月前の4月17日、渡辺鑵造の発起により広石郷学校が創設されました。これは本県で東端・国府郷学校と並んで最も早く開設された学校です。以後、県下で11月までに設立の郷学校は全部で108校を数えますが、当校設立のいきさつについて「御津北部尋常高等小学校沿革史」が次のように記しています。
明治5年4月某日、額田典事(御津は当時額田県)平松某君が県下巡視の際に当村で教育の重要性について熱心に話されました。その時、渡辺鑵造氏は大いに悟るところがあって、学校設立の提唱者となり、私財を投じ教育講を結んで、以後の御津北部小学校の基礎を作りました。
広石郷学校での教授内容及び規則については、『広石郷学課業表』・『規則』から概要が知られます。課業は8~10時までが読書(句読)、10~2時が習字、2~4時が数量となっており、さらにそれが第5等から第1等までそれぞれの教科内容が決められています。第5等の内容として、読書では『本朝3字経・孝経・究理図解』、習字は『五十韻(平・片仮名)・数名支干・3枚御高札・名字尽』、数量は『九九・寄算・引算』となっています。入校については特定の日を定めず村総代の証印を受ければ可能とされていました。その他、毎月20日に児童の優劣検査があり、休日は神武天皇御祭日・天長節、五節句・毎月16日・7月13~16日・12月21日~1月7日となています。
【第48番小学広石学校】ところが、広石郷学校は、学制に伴う県の布達により、明治6年10月10日をもって「第10中学区第48番小学校」と改称しました。創設時の位置は、広石村607番地の真宗浄宝寺内でした。当時の児童数は101名(明治7年学校表)、教師は3人で、旬読担当は御津神社祠官石黒須賀雄、習字担当は土井艮四郎、算術担当は敬円寺住職赤松圃純でした。
第48番小学校の入学者も年々増加して学校が手狭になってきたので、明治12年4月、浄宝寺内の学校を御津神社参籠殿に移し、広石学校と改称しました。明治17年7月、学区内の金野村から通学が遠距離との理由で分校設置の請願が出されましたが、同年10月県学務課員の巡視の際の説諭に従って、広石学校に通学を続けることになりました。
明治21年4月25日、広石村字神子田の現在地に学校を新築し、同年7月15日、開校式を挙げました。この工事中は大正寺内に仮教室を設けて授業を行いました。翌22年、町村制により西方・汗野・広石・豊沢・金野各村が合併して御津村となったので、これまで御馬学校に通っていた汗野と西方の児童が加わり、児童数も倍加しました。
明治36年4月1日には、国府高等小学校の高等科を分割して、御津尋常高等小学校と改称、さらに町村合併により明治40年12月、御津北部尋常高等小学校となり、戦後の教育改革を経て現在に至っています。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より