地元出身の春海法尼が開山といわれ、江戸末期に創建されたと伝えられています。当時裕福な家での多くの子女の中から親の信仰や心願もあって土地をつけて出家させられた女性がかなりあったのです。
創建時から地縁(広組)の関係もあって、大正寺の末寺として営まれてきましたが、野々山蓮乗尼(昭27没)のあと後継者がなく大正寺住職が兼務することになりました。
昭和17年の宗教法人法改正による届け出を「観音教会」と改称して提出したのが現在の名称の始まりです。
わずかに残された記録の中の「明治5年7月28日付戸籍相控帳」に広石村在として、
一右大正寺末 観音堂
創建年歴不詳
同縣管轄同郡御油村林忠七長女天保二辛夘年 知遊尼
四月八日右御油村於テ東林寺二得度文久元年辛見ハ月廿入五寺日壬申七拾三
一右大正寺末 春海庵
明和二乙酉年四月三日大正寺南冏創建
但嘗住無之
と併記されており、春海庵は明和2年(1765)4月、大正寺10代本誉南冏によって創建されたことがわかります。観音堂の創建はそれ以前、かつ大正寺創建時の永正3年(1506)以降と考えられます。また、明治14年の同種文書には春海庵は見当たりません。
さらに、「文政11年(1828)御本山宛人別之覚」には観音堂のみの記載なので、春海庵は幕末期既に無住化し、明治5~14年のある時期に合体して観音堂となり、開山を春海法尼とした(傍点部は前住職の覚書)と考えられます。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より