大恩寺
浄土宗鎮酉派の名刹で、浄土真院御津山といいます。浄土真院は松平清康の内室の法号です。境内には、清康夫妻、広忠、亀姫の四つの墓があります。
推古天皇33年(625)高麗(一説に百済)の僧恵潅が来朝し、三論宗を広め、新宮山に浄光院を開きました。文明11年(1479)に、今の千葉県飯沼の弘経寺第2世了暁上人は、その寺を弟子に譲り、浄土宗を広めるため、西上の途中、浄光院の荒廃を嘆き、この寺の再興こそ私の任務であると考え、老体を捧げて奉仕し、浄土宗新宮山大運寺と改めました。
上人が関東から招来された阿弥陀如来は、名工安阿弥快慶の作といわれ、京都本覚寺、千葉来迎寺の2体と併せて、歯吹如来の日本三体仏といわれています。口を開いてお説教をしている姿です。
文明15年(1483)に亡くなられた上人の跡を継がれた肇誉上人は、御津神社の夢のお告げにより、朝廷に奏請し、勅許を得て、現在地に移りました。この時、徳川松平家の四代親忠は大檀那となり、中興に尽くしました。
後土御門天皇から、紫衣や勅願所の綸旨を下賜され、松平家からは、厚い帰依を受け、多くの供養料が納められました。親忠の五男の超誉上人や清康の三男成誉上人は、それぞれ大運寺で得度し、知恩院や大樹寺の住職になりました。
広忠は寺の総伽藍を修理したり、松平家に大恩があるというので、寺の名を大恩寺と改めました。家康も、叔父の成誉上人を訪ねて、度々参詣し、下馬の制札や、100石の朱印状を納め、本尊の宮殿、土地の寄進をしました。
また牛久保の豪族牧野氏は、大恩寺の大檀那として、念仏堂を建て、位牌を納め、一族の墓を祀り、越後長岡城主となって以後も、明治に至るまで大恩寺を大切にしました。
絹本着色王宮曼荼羅図(国指定重要文化財)
親忠が寄進した1軸で、我国に伝わる高麗仏画の名品といわれ、皇慶元年(1312)の年号と作者の名前がわかります。
内容は観無量寿経の教を描く当麻曼荼羅の左縁部分にある、印度マガダ国王舎城に起きた王家の悲劇です。仏教東漸を物語る生証人といえましょう。
山門(県指定文化財)
3解脱の三門とも書かれます。牛久保牧野家の娘の嫁ぎ先である、大垣城主戸田采女正が寛文12(1672)に寄進しました。禅宗様式ですが、垂木は平行になっており、重厚な造りです。2階には十六羅漢を祀っています。
木造阿弥陀如来坐像(県指定文化財)
高さ13㎝の小像ですが、衣文の線刻は力強く、はっきりしており、刀法も鋭くて古風を伝え、端麗な姿です。楠伊勢守正泰が、応水34年(1427)に赤栴壇の材料、一刀三礼をもって彫り、傑堂能勝禅師が開眼した旨の銘が像底にあります。
この像は元大恩寺住職中島教典師が、樺太在勤の際に求められたものです。
阿弥陀廿五菩薩来迎図(県指定文化財)
3幅対の画幅で、中央に阿弥陀如来、左右は、それぞれ14人ずつの菩薩が、音楽を奏でながら、紫金の雲に乗り、ひたすら称名する往生人を迎えに下りて来る図です。肇誉上人のとき親忠が寄進し、軸の修理の際は、幕府の指示を仰いだ旨の裏書きがあります。
蓮の図(県指定文化財)
知恩院に伝わる紅白蓮華図に似た名画です。
明代の作と思われます。二幅対になっていて、片方は風にそよぐ蓮、もう一方は、静かに咲く蓮の風情が描かれており、家康,の寄進です。
大恩寺文書(町指定文化財)
寺宝として大切に保存されているものの中で町指定のものは次のようで、受付に申し込めば拝観ができます。1、四重禁 文明19年(1487)
2、紫衣の綸旨 明応2年(1493)
3、勅願所の綸旨 明応8年(1499)
4、今川義冗安堵状 弘治2年(1556)
5、今川氏真安堵状 永禄3年(1560)
6、延命権兵衛塩浜寄進状 永禄6年(1563)
7、家康書状 天正2年(1574)
8、家康書状 天正2年(1574)
9、山県三郎右兵衛尉高札 元亀4年(1573)
10、牧野忠成書状 寛永14年(1637)
11、牧野家家老書状 宝暦年代外(1751~)
大恩寺にはこの他にも、仏像、仏画、家康の木像、古文書類、喚鐘、位牌等があります。
墓域には、歴代住戦、牧野古白を含む一族供養墓、牧野成守、岩瀬氏、菅沼氏、領主旗本柴田氏の墓や、寛文時代以前の銘のある70余基の古い墓を見ることができます。
みと歴史散歩:❷古道に沿って 平成12年2月発行より