柏木浜を出て北へ300m進むと報恩寺がある。報恩寺は、寺伝によれば大同2(807)年の創立で、当初は真言宗であったというが、現在は曹洞宗東漸寺の末寺である。
和泉式部供養塔
山門を入ると、左側に三十三観音の石仏が立ち並んでいる。その外れに、平安時代中期の歌人である和泉式部の供養塔という古い石製の三重塔がある。1番下の石の四面には、はっきりしないが梵字らしきものが刻まれている。和泉式部を慕う人々により建てられたと思われる。
報恩寺の絵馬【市指定有形文化財】(見学できません)
寛永7(1630)年に吉田村の長松が奉納した絵馬で、市内に残る絵馬としては古い時期のものである。大きさは縦61.5㎝、横90.3㎝で、白馬が描かれている。言い伝えによると、この白馬が夜に絵馬から抜け出し、付近の畑を荒らして困ったことから、寺の住職が絵から馬が抜け出さないように馬の足に灸をすえたという。絵馬の白馬の後ろ足にあるこげは、その灸の痕といわれる。
報恩寺の絵馬【むかしばなし】
むかし報恩寺の近くの畑では、麦の刈入れの頃になると、何者のしわざともわからない野あらしが毎夜のようにありました。困った人々は交代で畑を見張り、麦畑あらしをとらえようとしました。ある晩のこと、麦畑でガサガサと音がする方へ見張りの人たちが近寄ると、なんと馬が刈入れ間近の麦を食べているではありませんか。とらえようと近つくと、さっと寺の方へ逃げていきます。人々は寺とそのまわりを探しましたが、どこにも馬はみあたりません。次の夜から寺の中と麦畑を見張ることとしました。ある日の真夜中のことです。寺の中で馬のなき声がしました。見張りの人があわてて見に行くと、なんと絵馬に描かれた馬が抜け出そうとしているのです。このことを人々は寺の和尚に話し、和尚も絵馬から馬が抜け出すのを確認しました。そこで和尚は、馬が絵馬に戻ったあとに足にお灸をすえました。するとそのお灸がきいたのか、それからは麦を食べに出なくなりました。 (『小坂井のむかし話』より)
豊川の歴史散歩:❸小坂井の町から御津へ 平成25年10月発行より